■ 駒止地蔵と六条河原
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駒止地蔵
駒止地蔵(首斬地蔵)

 蓮光寺(下京区富小路通六条上ル)境内の地蔵堂には、「駒止地蔵」と呼ばれる大きな石の地蔵がまつられています。駒止地蔵は、もとは「六条河原」の刑場にまつられていたと伝えられています。別名「首斬地蔵」とも呼ばれています。

 「六条河原」とは、六条大路末の鴨川河原一帯をさします。現在の五条大橋以南から正面通辺りです。「六条河原」は東国へ抜ける街道である渋谷越(苦州滅路:くずめじ)に通じていたこと、葬送地である鳥辺野に隣接していたことなどから、平安時代末期よりしばしば合戦場となり、処刑場、首級の受け渡しの場でありました。
 列挙してみると、保元の乱では、清盛の叔父平忠正、その子長盛・忠綱・政綱・通正らが「六条河原」で斬首されました。平治の乱では、藤原信頼軍と清盛軍が「六条河原」で戦い、捕らえられた信頼はこの地で斬首されました。寿永3年(11894)、源義仲が、源範頼・義経軍に破れたのも「六条河原」。文治3年(1185)、処刑された平宗盛・清宗親子の首も「六条河原」にさらされました。
 中世以降にはさらに多くの人が「六条河原」で斬首梟首されています。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで敗れた石田三成、安国寺恵瓊が「六条河原」で処刑されほか、元和元年(1615)、夏の陣の敗戦後、豊臣秀頼の子国松や長宗我部盛親らも「六条河原」で処刑されています。

 「駒止地蔵」には、次のような伝説が伝えられています。

 昔、平清盛が馬に乗って六条河原にさしかかった時、馬が動かなくなったので、その場所を堀りおこしたところ、地蔵尊がでてきた。

 六条大路末を東へ進むと平家の本拠地六波羅へとつながります。また「六条河原」という場所が、源平時代のいくたびかの戦いの場として登場し、斬首や梟首という悲惨な光景を繰り返していた記憶が、平家の象徴である清盛を伝説に登場させたのではと、お地蔵様を拝みながら思いをめぐらせました。

【アクセス】蓮光寺 市バス河原町五条下車すぐ
※蓮光寺境内墓地には、長宗我部盛親の墓があります。盛親と親交があった蓮光寺の住職蓮光上人が、六条河原で斬首された盛親の首級を、貰い受けて供養し葬むったということです。



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