■ 源氏館はいずこ?
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若宮八幡宮
若宮八幡宮

 平氏の本拠地は、六波羅、西八条ですが、では源氏の本拠地はどうなっているのだろうと調べてみました。六条堀川周辺に、その痕跡を見ることができます。

 左京六条二坊十五町(下の地図で「みのわ堂」とした水色部分)には、平安時代中期から鎌倉時代にかけて「みのわ堂」と呼ばれた仏堂がありました。この堂は、源頼義が建立したものです。伝説によると、頼義は前九年・後三年の役の戦死者の片耳を切り取り、それをこの堂の下に埋めた。それからこの堂を「耳納堂(みのうどう)」と呼んだといいます(『古事談』巻5)。

 左京七条三坊一町(下の地図で「若宮八幡」とした水色部分)には、源頼義が天喜元年(1053)に創建した若宮八幡宮(六条八幡宮、左女牛八幡宮)がまつられていました。この地に、源頼義の子、義家親子の邸宅がありました(九条家本『延喜式』付図、『拾芥抄』東京図)。

 若宮八幡宮は、慶長10年(1605)五条坂へ移転しています。もとの場所にも、小祠がまつられたいたようで、現在では、町内の有志の人びとによって社殿が再興され、八幡宮がまつられています。鳥居の横の「若宮八幡宮」の石碑の側面には「八幡太郎源義家誕生地」と刻まれた石碑が建っています(上写真)。
 左京六条二坊十二町(下の地図で「六条堀川邸」とした水色部分)にも、清和源氏の居館があっりました。この邸宅は「源氏累代」の館といわれています(『中古京師内外地図』)。保元の乱の時には源為義が、平治の乱の時には源義朝の邸宅でありました(『保元物語』『平治物語』)。源為義が六条判官と呼ばれたのもこの邸宅の位置に由来します。京都に入った源義経もまた、この邸宅を宿所としています。(『百練抄』文治元年10月17日条)。土佐坊昌俊が、源頼朝の命令で夜討ちをかけたのもこの邸宅です。しかし、義経の宿所については、『吾妻鏡』によると「六条室町殿」となっており、この周辺に別の邸宅も存在していた可能性もあります。なお、「左京六条二坊十二町」というのは、江戸時代に作られた『中古京師内外地図』によるもので、同時代史料からは六条堀川のどちらにあったのかは確定することはできません。
 堀川通西側には、「左女牛井跡」の石碑が建っています(下写真)。「左女牛井」とは、「六条堀川邸」にあった井戸で、名水といわれ、茶の湯に重用されました。井戸は、第二次世界大戦中、建物疎開により潰され、堀川通となりました。

 さて源頼朝の宿所についてですが、平氏滅亡後、建久元年(1190)上洛の際の宿所は、平頼盛の邸宅の跡に建てられた「六波羅新造亭」(『玉葉』建久元年11月7日条)が用意されました。二町ある大規模な邸宅でした。六条堀川周辺から六波羅へと源氏の本拠地が移ることとなりました。
 では、平治の乱以前の幼少の頃はどこに暮らしていたのでしょうか。今回の探偵では、そこまでさぐることができませんでした。累代の館「六条堀川邸」だったのでしょうか。それとも頼朝の母、熱田大宮司藤原季範の女の邸宅であったのでしょうか。

源氏館周辺地図  左牛女井

は、若宮八幡宮の位置。
※現在の若宮八幡宮については 「足利義満寄進の手水鉢」を参照してください。
※上の地図の黄色の部分(左京六条二坊十三町)の「六条殿」とは、後白河法皇の御所(後の長講堂)です。法皇は建久3年(1192)、「六条殿」において崩御します。

【アクセス】
若宮八幡宮 市バス西洞院六条下車
左牛女井 市バス堀川五条下車 堀川通西側

【参考文献】
鮎沢(朧谷)寿『源頼光』(吉川弘文館 1968)
高橋慎一朗『中世の都市と武士』(吉川弘文館 1996)



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