
崇徳天皇廟
京都の繁華街・祇園の真ん中に、崇徳院(崇徳上皇)をまつる御廟があります。場所は、東山通から一筋西側の狭い通り・万寿小路に面しており、祇園歌舞錬場の裏側(東側)にあたります。繁華街の中で忘れ去られたように存在する御廟ですが、歴史を振り返ってみると感慨深いものがあります。
なぜ崇徳院の御廟がこのような所にあるのでしょうか。これは、御白河院が崇徳院の怨霊を慰めるために鴨川の東に建てた粟田宮という神社がこの地に移ってきたものなのです。その歴史をたずねてみましょう。
崇徳天皇廟(粟田宮)
保元の乱に敗れた崇徳院は、讃岐国に流され、その地で崩御します。怒りに荒れ狂う崇徳院の怨霊の姿は、『保元物語』などに鮮やかに描かれています。
元暦元年(1184)、後白河院は崇徳院の冥福を祈り怨念を鎮めるために、保元の乱の戦場であり、崇徳院の御所(白河北殿、「藤原頼長の桜塚」の中に石碑の写真があります)の跡である春日河原に社殿を建立しました。これが「崇徳天皇廟」のはじまりです。幾度も水害、焼失にあいますが、その度に再建され室町時代まで存続します。しかし、応仁元年(1467)焼亡して以後、荒廃してしまいます。
明応6年(1497)、現在の東山安井あたりにあった光明院の住持・幸盛上人は、後土御門天皇の綸旨を得て、「崇徳天皇御廟」を光明院内に再興しました。この地は、崇徳院の寵妃・阿波内侍が居住していた場所という伝説があります。これが現在の「崇徳天皇御廟」の前身です。元禄8年(1695)、太秦より蓮華光院(安井門跡)が移ってきて、光明院はその下に属することになりました。光明院が廃絶した後、「崇徳天皇御廟」は、六波羅蜜寺の普門院が管理するところとなりました。六波羅蜜寺の古記録によると、崇徳院をまつる「崇徳天皇社」、御影をまつる「御影堂」、「崇徳院御廟所」の石碑があったことがわかります。蓮華光院も明治維新後は大覚寺に吸収され、その鎮守社である安井神社(安井金刀比羅宮)のみが残りました。このとき御影堂にまつられていた崇徳天皇も併せて安井神社にまつられています。
「崇徳天皇廟」の遺物としては、白峰神宮と六波羅蜜寺に崇徳天皇御影が残されてます。
この「崇徳天皇御廟」は「粟田宮」とも呼ばれていましたが、これは建久3年(1241)以降、廟が粟田郷にあったことによります。
ただし山田雄司氏『崇徳院怨霊の研究』によると、「崇徳院怨霊鎮魂のための施設は、粟田宮だけにとどまらなかった。粟田宮内にも崇徳院御影堂が建立されたが、崇徳院に関連した人々によって、京都にはもうひとつ別の崇徳院御影堂が建立された」とし東山安井の「崇徳天皇御廟」と、春日河原の「崇徳天皇御廟」は連続せず、東山安井の「崇徳天皇御廟」は崇徳院の寵妃・阿波内侍が自宅に建立した独立したものと考証されています。
では遺跡の現況を見ていきたいと思います。
「鴨川の東、春日の末」にあった「崇徳天皇廟」の跡は、現在の京都大学医学部付属病院の敷地にあたります。近世までは旧跡に石仏があり、「人喰い地蔵」と呼ばれていました。「人喰い」は「すとく」がなまったものといわれています。明治になってこの石仏は、京都大学付属病院の建設にともない、聖護院の積善院準提堂に移されました(下右写真)。旧跡については、平安京探偵団のバイブルである竹村俊則さんの『昭和京都名所図絵』(洛東下)に、「京大医学部構内に残る崇徳塚」として写真が掲載されています。何度か探しに行ったのですが、現在工事中でまだ未見です。
祇園の万寿小路に面する「崇徳天皇廟」の現況は、上に掲げた写真のとおりです。墳丘を石で固め上には「崇徳天皇御廟所」と書かれた石碑が立っています。
西田直二郎先生の考証によると、この御廟の背後(歌舞錬場の中)にもうひとつ墳丘があり(下写真、『京都史蹟の研究』より)、そちらが「崇徳院御廟所」址で、現在の「崇徳天皇廟」は「御影堂」址と推定しています。現在の「崇徳天皇廟」お墳丘上にある石碑も、もともとは歌舞錬場の中にあったものが移されたということです。先日、歌舞錬場の中の墳丘を確認したいとたずねたのですが、受付の方の「ありません」の一言で入れてもらえませんでした。いつかあらためて訪問したいと思っています。

歌舞練場(旧八坂女工場)内の墳丘(『京都史蹟の研究』による) 崇徳地蔵(人食い地蔵)
【アクセス】
崇徳天皇御廟ー市バス東山安井下車すぐ
崇徳地蔵ー市バス熊野神社前下車 聖護院の東南、積善院準提堂境内
【参考文献】
西田直二郎「崇徳天皇御廟所」(『京都史蹟の研究』吉川弘文館 1961年)
山田雄司『崇徳院怨霊の研究』(思文閣出版 2001年)
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