■保元・平治の乱の舞台~三条東殿跡・高松殿跡
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三条東殿
三条東殿
(『保元平治の乱合戦屏風図』別冊太陽『平家物語絵巻』より)

 先日、平清盛と後白河院をテーマにした公開講演会に行って来ました。知的な刺激をたくさん受けたその帰り、気がつくと知らず知らずに三条東殿跡あたりをそぞろ歩いていました。三条東殿跡は烏丸通に面したオフィス街になっています。新風館という若者に人気のファッションビルがまさにその場所です。

保元の乱と平治の乱

 12世紀の中ごろ、皇位をめぐって後白河天皇と崇徳上皇が対立し、保元元年(1156)鳥羽法皇が亡くなると、天皇側には藤原忠通・源義朝・平清盛がつき、上皇側には藤原頼長・源為義・平忠正らがついて戦い、天皇側が勝利を得ます。これが保元の乱です。
 しかし、保元の乱後の恩賞に不満を持った源義朝は、平治元年(1159)、後白河上皇の近臣藤原信頼と結んで兵をあげ、院の近臣で平清盛とも親交が深い藤原通憲(信西)を殺害しますが、清盛の反撃にあって敗れます。これが平治の乱です。

源平争乱時関連地図
 上の図は、三条東殿・高松殿近辺の源平争乱時関連地図です。は石碑、説明板の位置です。

三条東殿跡

三条東殿跡  三条東殿跡

 姉小路通烏丸東入南側角に、「三条東殿遺址」の石碑と駒札が建っています。ここは、白河天皇をはじめ歴代天皇が里内裏としてしばしば用いました。
 平治元年(1159)12月、藤原信頼・源義朝の軍勢が押し寄せ、後白河法皇を宮中に押しこめ、この御所に火を放ちました。そのあと軍勢は、姉小路西洞院の信西の宿所を襲いました。平治の乱のはじまりです。

高松殿跡

高松殿跡石碑  高松神明社

 姉小路通釜座東入ル北側に高松神明社があります。醍醐天皇の皇子・源高明(914〜982)の邸宅でした。平安時代後期には後白河天皇の内裏となります。
 保元の乱(1156)では、崇徳上皇方の白河北殿に対して後白河天皇の本拠地となります。源義朝や、平清盛の軍勢は、この御所に参集して白河へ攻め込みます。平治の乱(1159)で、御所は全焼します。高松殿の鎮守・高松明神は、高松神明社として名残を伝えています。

【アクセス】
崇徳天皇御廟ー市バス東山安井下車すぐ
崇徳地蔵ー市バス熊野神社前下車 聖護院の東南、積善院準提堂境内
 
【参考文献】
西田直二郎「崇徳天皇御廟所」(『京都史蹟の研究』吉川弘文館 1961年)
山田雄司『崇徳院怨霊の研究』(思文閣出版 2001年)



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