■小督の悲恋1
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後清閑寺陵
『聖蹟図志』後清閑寺陵より

 『平家物語』巻6「小督」は、高倉天皇と小督の悲恋を描いています。
 『平家物語』が伝えるところでは、小督は高倉天皇中宮徳子に仕えた宮中一の美女で琴の名手でした。彼女は平清盛の女婿藤原隆房に見初められたのち、高倉天皇の寵愛を得ます。しかし、そのことを知った清盛の怒りをかい、難を逃れるために嵯峨に身を隠します。高倉天皇の命を受けた弾正少弼仲国が琴の音を頼りに小督を見つけだし、宮中に連れ戻します。再び天皇の寵を得、皇女を生みますが、清盛の目をのがれることはできず、尼にされて宮中を追われてしまいます。

 小督は実在の人物です。では本当に小督は悲劇のヒロインだったのでしょうか?

小督

 生没年未詳。権中納言藤原成範の女。高倉天皇の女房。平清盛の女婿藤原隆房に見初められたのち、高倉天皇の寵愛を受け、範子内親王を生んでいます。しかし範子内親王出産後は出仕せず、その後出家をしました(『山槐記』治承4年4月12日条)。その後は、嵯峨に隠棲します。『建春門院中納言日記』(作者は、建春門院・平滋子に仕え、「中納言」と呼ばれた女房。藤原定家の同母姉)には、高倉天皇に仕えていた若いころの小督の姿と、出家後20余年後に嵯峨で再び見たその姿を伝えています。

「山吹のにほひ、青き単衣、えび染の唐衣、白腰の裳着たる若人の、額のかかり、姿よそひなど、人よりは殊に花々しと見えしを、いまだ見じとて、人に問ひしかば、小督の殿とぞ聞きし。此の度より物言ひそめて、局の其方ざまなれば、下るとても具してなどありしが、其の後行方も知らで、二十余年の後、嵯峨にて行き遇ひたりしこそ、あはれなりしか」

 『平家物語』では小督が内裏を去った悲しみのあまり高倉天皇が崩御されるとしているのですが、これは事実とはいえません。小督が治承元年(1176)に皇女を生み内裏を去った翌治承2年(1177)には中宮徳子が言仁(安徳天皇)を生み、その翌年治承3年には女房藤原殖子が守貞(後高倉院)、女房少将局が惟明、女房按察典侍が潔子、そして治承4年には女房藤原殖子が尊成(後鳥羽天皇)を生むといったように、次々と皇子皇女が生まれています。皇子皇女が生まれ記録に残っただけでもこれだけの女性がいるのですから、『平家物語』で書かれているように、小督ひとりを寵愛していたわけでないことがわかります。

 ではいったいなぜ小督は、皇女を生みながら内裏を去り、出家しなければならなかったのでしょうか?
 角田文衞先生は「小督の局」の中で、次のように指摘しています。小督が生んだ範子内親王は、中宮徳子の猶子になり、平忠盛の女婿源有房や宗盛の猶子平瑞子の世話を受けるなど、平氏関係の人々と極めて親縁であった。清盛が後白河法皇を鳥羽に幽閉した際に、清盛の許可を得て法皇のもとに出入りできた人物は、小督の父である藤原成範とその兄弟だけであった。つまり小督が成範の娘である限り、『平家物語』が説くように、清盛が強い圧力をかけたとはあり得ないということだそうです。

 後宮の生活に疲れ果てたのか? かつての恋人藤原隆房への思慕か? やはり清盛や徳子への遠慮からか? 『山槐記』の著者藤原忠親が、小督が出仕をしなくなった理由について「子細あるか、その由を知らず」と記しているように、その理由は永遠に謎のままでしょう。

【参考文献】
角田文衞「小督の局」『王朝の映像』東京堂出版
冨倉徳次郎『平家物語全注釈』角川書店
上横手雅敬『平家物語の虚構と真実 上』塙書房

小督の悲恋2



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