■西八条第跡
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若一神社清盛像

『平家物語』の主人公、平清盛。物語の中では徹底的に悪逆非道の人物として描かれています。はたして史実の中の清盛はどうだったのでしょうか。平家の史跡を歩きながらご一緒に考えていきましょう(^・^)

 平家の邸宅といえば六波羅館と西八条第があげられます。六波羅館は別項目をたてることにし、まずは西八条第をご紹介します。

西八条第跡

西八条第跡周辺地図 西八条第跡パネル

 平清盛の邸宅である西八条第は、八条亭とも呼ばれ、平安京左京一坊の八条大路(現在の八条通)以北、大宮大路(現在の大宮通)以西に位置します。6町以上を占めていましたが、広大な邸が存在していたのではなく、町単位で殿舎が独立していたようです。『平家物語』によると、清盛が蓬を愛し庭に植えていたことから「蓬壺」ともいわれていました。出家後の清盛は、摂津福原(神戸市兵庫区)にいることが多かったので、清盛の妻・時子が女主としてここを守りました。
 治承3年(1179)12月16日には清盛の娘・建礼門院徳子が生んだ東宮言仁親王(後の安徳天皇)が西八条第に行啓。養和元年(1181)閏2月4日、清盛が64歳で没した2日後、放火による火災に遭い、寿永2年(1183)7月25日、平家都落ちに際しては、自ら火を放ち焼亡してしまいます。

 現在地でいうと西八条第は、梅小路公園とJR東海道線と山陰線の線路敷地にあたり、往時をしのぶものは何もありませんが、梅小路公園の中には上の写真のような説明板が立てられています。説明板によりますと西八条第の調査は、梅小路公園整備前の平成4・5年に行われ、柱跡、溝跡のほか、平安時代後期の土器とともに焼土や、炭化遺物も出土し、火災があったことを裏付けているそうです。

※上の地図の西八条第範囲は、九条家本『延喜式』付図をもとに作成しました。

若一神社

若一神社
若一神社クスノキ

 若一神社は、清盛によって勧請された西八条第内の鎮守社だと伝えられています。祭神は熊野大権現の第1王子。境内には平清盛の像が立っています(トップの写真)。境内前にある大クスノキは、さわると祟りがあるとして西大路通が迂回しています。境内の入り口には「平清盛公西八条殿跡」の石碑がたっていますが、場所的には少し離れています。竹村俊則先生の『昭和京都名所図絵 洛南』(駸々堂 1986)では、付近の勝明寺の鎮守社が明治の神仏分離によって独立し、「御所ノ内」という町名から起こった伝説であるとしています。

【アクセス】市バス西大路八条下車
【参考文献】
『改訂 平家物語の世界』(徳間書店 1973)
朧谷寿『平安貴族と邸第』(吉川弘文館 2000)



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