■巻1の1
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■2004.11.10 沙羅双樹の花の色

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす

 こどものころ、沙羅双樹の花ってどんなだろうと興味津々でした。大人に聞くと、お寺の庭に植えられているナツツバキのことだと教えてくれました。ナツツバキの木は、初夏のころに白い可憐な花を咲かせ、咲かせたと思うと1日で散ってしまいます。散った姿も、苔の緑に栄え風情があると愛されてきました。
 しかし、お釈迦様の涅槃の時に四方に植えられたいたという沙羅双樹の木は、インド原産のもので、日本では植物園の温室でしか育ちません。

  

 2002年、滋賀県草津市の水性植物園みずの森で、沙羅の樹の花が咲いたというニュースが話題になりました。わたしも沙羅双樹の花を一目見なければと、写真を撮りに行きました。たしかにわが家の沙羅の木とは、立ち姿も花も別物ですね。大きかったです!

■2004.12.09 祇園精舎の鐘の声

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす


祇園精舎の鐘の声って、どんな響きなのでしょう?
そもそも祇園精舎って、何なのでしょう?
ひとつひとつコトバの意味を考えていくと、知らないことだらけです。それをひとつづつ調べて行くのも、楽しい作業です。
知らず知らずのうちに暗唱している『平家物語』の冒頭の一文。『平家物語』の諸伝本は100を越えるといわれていますが、この始まりだけは共通しているといいます。

「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」というのは、中インドのサーヴィッティー国にあった精舎です。スダッタ長者が、ブッダとその教団のために、ジェーダ太子の林苑(祇樹給孤独園{ぎじゅぎっこどくおん}と漢訳される)を買い取って僧院を建立したました。「祇樹給孤独園」を略して「祇園」とし、精舎というのは寺院、僧院のことです。
祇園精舎にはたくさんの院や堂が建っていました。その中に「無常堂」というものがあります。精舎で修行する僧が病にかかって命が尽きようとするとき、無常堂に移って、無常を観じさせます。この堂の四隅には玻璃の鐘がありました。病僧が臨終を迎えるまさにその時、四隅の鐘がひとりでに鳴り出し、「無常偈」を説くのだといいます。その音を聞きながら病僧は安らかに息をひきとります。
「無常偈」とは、「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」(諸行は無常にして これ生滅の法なり 生滅は滅しおはりて 寂滅なるを楽しみとなす)という四句の偈です。

重要なのは、『平家物語』の冒頭の句と類似する文言は、『平家物語』が語れていた当時、浄土教信仰の流行とともに、寺院での説教や法会の場でさかんに語られて、また「祇園精舎の鐘」も、『栄華物語』や『梁塵秘抄』などに見え、当時の人たちにとって、イメージを喚起させるもっともポピュラーなキーワードであったことです。

「玻璃の鐘」。わたしはやはり気になります。どんな音?
玻璃とはガラスのこと。夕食時、夫とガラスのコップを指で弾いて、あれこれと想像しました。
チリン、チリン。
中国へよく旅行します。開封の相国寺の風鐸の音、寧夏回族自治区の拝寺口双塔の風鐸の音、いずれも風が吹くたびにはかなげに鳴り響いたのが忘れられません。それが祇園精舎の鐘の音に重なって聞こえてきます。

【参考引用文献】
中村元『図説仏教語大辞典』(東京書籍)
※「祇園精舎」については、『祇園図経』(『大正新修大蔵経』45所収)に説かれています。
水原一『平家物語の世界 上』(日本放送出版協会)
兵藤裕己『平家物語〜〈語り〉のテキスト』(ちくま新書)
冨倉徳次郎『平家物語全注釈 上』(角川書店)

■2004.12.20 平氏六波羅邸

まぢかくは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人の有様、伝え承るこそ心も詞も及ばれね。


上の写真は、京都女子大学の校舎の上から六波羅を眺望したものです。
平氏の拠点のひとつ六波羅第は、鴨川の東、六条河原の末に位置します。清盛の父・忠盛のころから「故刑部卿忠盛の代に出し吉所也」(長門本『平家物語』)と伝えられるように、平氏一門の重要な邸宅でした。もとは一町四方であったものが清盛のころには二十余町に拡大します。清盛の泉殿、頼盛の池殿、惣門の脇に教盛の門脇殿、東南の小松谷に重盛の小松殿が建ち並んでいました。しかし平家の都落ちの際、邸宅に火を放たれ、すべては灰燼に帰してしまいます。
六波羅第の範囲については、確定されているわけではなく、わずかに残る町名(三盛町・池殿町・門脇町・多門町・北御門町・西御門町)によって推定されています。
洛東中学校の正門を入った所に、「此附近 平氏六波羅第 六波羅探題府」の石碑が立っています。


■2005.01.16 平氏西八条邸



 平清盛の邸宅である西八条第は、八条亭とも呼ばれ、平安京左京一坊の八条大路(現在の八条通)以北、大宮大路(現在の大宮通)以西に位置します。6町以上を占めていましたが、広大な邸が存在していたのではなく、町単位で殿舎が独立していたようです。『平家物語』によると、清盛が蓬を愛し庭に植えていたことから「蓬壺」ともいわれていました。出家後の清盛は、摂津福原(神戸市兵庫区)にいることが多かったので、清盛の妻・時子が女主としてここを守りました。
 治承3年(1179)12月16日には清盛の娘・建礼門院徳子が生んだ東宮言仁親王(後の安徳天皇)が西八条第に行啓。養和元年(1181)閏2月4日、清盛が64歳で没した2日後、放火による火災に遭い、寿永2年(1183)7月25日、平家都落ちに際しては、自ら火を放ち焼亡してしまいます。

 現在地でいうと西八条第は、 梅小路公園(京都市下京区)とJR東海道線と山陰線の線路敷地にあたり、往時をしのぶものは何もありませんが、梅小路公園の中には上の写真のような説明板が立てられています。説明板によりますと西八条第の調査は、梅小路公園整備前の平成4・5年に行われ、柱跡、溝跡のほか、平安時代後期の土器とともに焼土や、炭化遺物も出土し、火災があったことを裏付けているそうです。

■2005.01.21 祇王

仏も昔は凡夫なり
我等も終には仏なり
いづれも仏性ぐせる身を
隔つるのみこそかなしけれ

上の写真は、白拍子祇王・祇女と母、そして仏御前が出家遁世し、過ごした場所だと伝えられている祇王寺(京都市右京区嵯峨鳥居本)です。
祇王寺はもともと、小倉山中にあった往生院という寺の子院でした。中世末期に往生院は荒廃してしまいますが、祇王寺は江戸時代に再興されます。

左側の三重石塔が、祇王・祇女の姉妹、彼女らの母刀自、仏御前の墓といわれています。
右側の五輪塔は、清盛塚です。

【参考文献】
竹村俊則『京の石造美術めぐり』(京都新聞社 1990)
『京都市の地名』(平凡社)
竹村俊則『昭和京都名所図絵 4洛西』(駸々堂 1983)

■2005.01.22 白拍子

白拍子(しらびょうし)
白拍子とは、白拍子舞を演ずる遊女をいう。
白拍子とは本来は節の名であったのが、院政期には歌舞の名称となり、これを舞う遊女もさすようになった。
男舞と呼ばれたように、水干に立烏帽子、白鞘巻の脇差を差すという男装で舞った。
起源については2説ある。ひとつは『平家物語』巻1「祇王」の段が伝える、鳥羽院の時、島の千歳・和歌の前が舞いだしたとする説。もうひとつは『徒然草』225段に、磯の禅師が藤原通憲(信西)から舞を学び、禅師の娘静(義経の愛妾静)がさらにこれをついだとする説。



『平家物語』には白拍子が登場します。
祇王・祇女、仏御前、源義経の愛妾静御前。
ぼんやりも白拍子に扮してみました。完全になりきってます。

【参考文献】
『平安時代史事典』

『平家物語全注釈』上

■2005.02.25 殿下騎合事件


先週の大河ドラマ「義経」で、殿下騎合事件のようなシーンが登場しました。
でもあのシーンは、『平家物語』に出てくる「殿下騎合事件」とは違い、ドラマの創作ということです。

殿下騎合事件について簡単にまとめてみます。
まず『平家物語』の「殿下騎合(てんがにのりあひ)」(巻1)ではどう描かれているでしょう。

 嘉応2年(1170)10月16日、平重盛の次男資盛が供の若侍たちと蓮台野・紫野、右近馬場あたりまで狩りに出かけました。夕方になり六波羅への帰路へつく資盛一行は、時の摂政である松殿・藤原基房が参内する途中の行列に、大炊御門猪熊で行きあいました。摂政の行列にあうと、下馬の礼をとるのが礼儀でしたが、資盛の一行はみな二十歳以下の若者ばかりで、下馬の礼の作法をわきまえるどころか、行列の前を駈け破って通ろうとしました。摂政の供の者たちは、その無礼なふるまいに対して、資盛一行をみな馬から引きずりおろし、恥辱を与えます。 ほうほうの体で逃げ帰った資盛は、祖父の清盛へ訴えます。事の次第を聞いた清盛は、大いに怒り、摂政に復讐してやろうと言います。それを聞いた重盛は、下馬の礼をとらなかったことこそが礼儀知らずであること言います。そして、事件に関わった侍たちを召して注意をし、摂政には自分から無礼を働いた事をお詫びしたと思うと述べます。
 しかし、事件はそれだけでは終わりませんでした。清盛は、重盛に相談せずに侍たちを集め、摂政が参内する途中を猪熊〜堀川辺りで待ち伏せ、前駆・随身たちの髻を切るなどさんざんな乱暴を働きました。このことを知った重盛は、この乱暴に参加した侍たちを勘当し、資盛を伊勢へと追放します。


※上の写真は、竹屋町通と猪熊通の交差点。つまり『平家物語』で描かれている「大炊御門猪熊」にあたります。最初の事件が起きた場所。暗くてよく見えませんが、正面に見えるのは二条城です。

では史実ではどうでしょう。『玉葉』『百錬抄』によると、事件の様子が少し違ってきます。復讐を企てたのは清盛ではなく重盛でした。

 嘉応2年(1170)7月3日、摂政・藤原基房が法勝寺の御八講初に向かう途中、女車に乗った資盛に行き合います。摂政の舎人・居飼らが、資盛の女車を打ち破って乱暴を働きます。この乱暴に及んだ理由ですが、『玉葉』『百錬抄』のは何も触れられていません。摂政は家に帰った後、使いとともに事件を起こした舎人・居飼らを重盛のもとに遣わし、早速にわびをいれます。その後も重盛の怒りを恐れて、事件当時の前駆・随身を勘当し、舎人・居飼らは検非違使に引き渡します。
 しかし、それでもなお重盛の怒りはおさまらず、侍たちに摂政が参内するのを大炊御門堀川で待ち伏せさせ、前駆を馬から引きずりおろし、髻を切る暴力を働きます。


【参考文献】
村井康彦『改訂 平家物語の世界』(徳間書店 1973)
冨倉徳次郎『平家物語全注釈』上(角川書店 1966)

■2005.02.28 平重盛の小松殿の園地

平重盛の邸宅「小松殿」の園地と伝承される庭園を紹介します。

積翠園(しゃくすいえん)は、東山区妙法院前側町にあります。もともとは妙法院の境内地でしたが、昭和29年(1954)、日本専売公社が土地を買収し、現在は京都専売病院の庭園となっています。


東西に伸びた池中には大島、小島ふたつの島があります。大島のそばには「夜泊石(よどまりいし)」と呼ばれる5つの石が配置されています。これは蓬莱山から宝物を積んで帰った宝船が、港に停泊している姿を現したものといわれています。左の写真の中央に見える石がそうです。

積翠園は、江戸時代には妙法院境内の庭園となっていましたが、佐々木利三氏はこれを平安時代末期にさかのぼる庭園遺構であり、なおかつこのあたりにあったと推定される平重盛の邸宅「小松殿」の園地ではないかとされています。
平家都落ちの際には「六波羅」とともに「小松殿」も焼き払われたといいます。「小松殿」の正確な位置は確定できませんが、『平家物語』(長門本)に、「六波羅ノ東大道ヲ隔テ辰巳角云々」とある記事と、小松谷の地名をてがかりとして推定すると、おおよそ京都専売病院の北あたりになるのではと思われます。

積翠園を訪ねた際は、周辺を歩いてみてください。東側の小高い場所は、藤原邦綱の邸宅「若松亭」の苑地址といわれています。池は現在では残っていませんが、池田町という地名が残っています。六波羅との距離感も、歩いて感じてくだいませ。

【アクセス】
市バス「馬町」下車すぐ。京都専売病院の構内。庭園は自由に見学できます。京都専売病院の守衛所横が見学入口になっており、2種類の絵ハガキを無料でくださいます。

【参考文献】
佐々木利三「積翠園の保護についてー平安朝庭園の遺構として」(『史迹と美術』254号 昭和30年)


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