■人物
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■2004.12.14 平忠盛

平忠盛(1096〜1153)
平安末期の武家の棟梁。白河・鳥羽院の近臣。正盛の子。清盛の父。伯耆・越前・備前・美作・播磨の国守を歴任し、正四位上刑部卿までいたる。藤原頼長はその日記(『台記』天養元年10月26日条)の中に忠盛を評して「数国の吏を経、冨巨万を累ね、奴僕国に満ち、武威人にすぐ。人となり恭倹、いまだかつて奢侈の行いあらず」と記している。


平忠盛は、天承2年(1132)得長寿院を造進した功によって内昇殿を許されます。このとき忠盛が昇殿を許されたことに反発した貴族たちが忠盛を闇討ちにしようと企みますが、忠盛の機転で切り抜けるという話が、巻1の「殿上闇討」です。
「殿上闇討」が史実であったかどうかは、貴族の日記等の史料には出ておらず不明です。しかし、『平家物語全注釈』の解説によると、『明月記』に同様な事件が起こっていることが見られることから、史実を反映している可能性があることを指摘しています。
平忠盛につていは、高橋昌明『増補改訂 清盛以前』(文理閣 2004)が詳しいです。
下の写真は、得長寿院跡(京都市左京区)の石碑です。



【参考引用文献】
『平安時代史事典』(角川書店)
『平家物語全注釈』上(角川書店)
高橋昌明『増補改訂 清盛以前』(文理閣 2004)

■2004.12.16 平清盛

平清盛(1118〜1181)
平安末期の武家の棟梁。忠盛の子。白河法皇の落胤とも伝える。通称平大相国(へいだいしょうこく)。法名は浄海(じょうかい)。保元・平治の乱の後対立勢力をおさえ、仁安元年(1166)内大臣、翌年には太政大臣となったが、ほどなく辞任、病を得て出家する。承安2年(1175)娘徳子を高倉天皇の中宮として入内させ、平氏一門あわせて500余ヶ所におよぶ荘園、30余ヶ国といわれる知行国を持ち、一族を朝廷の高位高官につけた。治承3年(1179)クーデターをおこし後白河法皇を幽閉し高倉上皇の院政を実現して、平氏政権を樹立した。治承4年(1180)安徳天皇、高倉上皇を伴い福原に移った。これが世に言う福原遷都である。しかし半年で挫折する。また大輪田泊を修築し、瀬戸内海航路の整備にもつとめ日宋貿易を推進した。平氏一門への権力集中に、朝廷でも地方でも反感がつのり、治承4年の内乱など各地に反平氏勢力が挙兵するさなか、熱病により薨去。


『平家物語』の中心人物。清盛なしでは語れません。
『平家物語』では、悪逆非道に描かれていますが、元木泰雄『平清盛の闘い』(角川書店 2001)を読むと、清盛こそ新しい時代を切り拓こうとしたパイオニアであったことがわかります。
平清盛については五味文彦『人物叢書 平清盛』(吉川弘文館 1999)もあります。手元にはあるのですが、まだ読み終えていないので内容はわかりません。

【参考文献】
『平安時代史事典』『角川 日本史辞典』

■2005.01.05 源義経

源義経(1159〜1189)
平安末期から鎌倉初期にかけての武将。義朝の子。母は九条院(近衛天皇中宮藤原呈子)の雑仕女常盤。幼名は牛若。義朝が平治の乱に敗れた後、母や兄(今若〈後の全成〉・乙若〈後の義円〉)とともに捕えられるが、助命され鞍馬寺に入る。鞍馬寺を出て奥州の藤原秀衡を頼り、治承4年(1180)兄頼朝の挙兵に参じ、頼朝の代官として平家追討軍を率い、平氏を一の谷・屋島・壇ノ浦に破る。その後、頼朝の許可を得ずして朝廷より検非違使・左衛門少尉に任じられたことから頼朝の怒りを買う。叔父源行家とともに頼朝に反したが、失敗。陸奥に潜行し、再び秀衡を頼って平泉に入る。しかし、秀衡が死去した後にその子泰衡に襲われ、衣川で自刃。
  

史実の中で義経を知ることができるのは、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』、右大臣藤原兼実の日記『玉葉』などの貴族の日記に登場する9年間のみ。黄瀬川で兄頼朝と対面するまでの義経の前半生は、『吾妻鏡』の治承4年10月21日条には次のように書かれています。

今日、弱冠一人、御旅館の砌に佇み(中略)この主は、去ぬる平治二年正月、襁褓の内において父の喪に逢ふの後、継父一條大蔵卿〈長成〉の扶持によって、出家のために鞍馬に登す。成人の時に至りて、しきりに会稽の思ひを催し、手づから首服を加へ、秀衡の猛勢を恃みて奥州に下向し、多年を歴るなり。しかるに今武衛宿望を遂げらるるの由を伝へ聞きて、進発せんと欲するのところ、秀衡強ちに抑留するの間、密々にかの館を遁れ出でて首途す。秀衡悋惜の術を失ひ、追って継信・忠信兄弟の勇士を付け奉ると云々。
(『全釋 吾妻鏡』第1巻)


上の記事の中、わたしたちがよく知っている弁慶との五条橋での出会いとか、金売り吉次に連れられての奥州下りをしたとかのエピソードのかけらも見当たりません。それらの話は後の時代につけ加えられていった創作・伝説で、真実の義経像が見えないほどに、創作と伝説がどんどんと一人歩きしてしまいました。「判官びいき」という言葉があるように、いつの時代も日本人にとって源義経は、悲劇のヒーローであり続ける必要があったからでしょうか。

【参考文献】
『平安時代史事典』『角川 日本史辞典』
『全釋 吾妻鏡』第1巻(新人物往来社 1976)
渡辺保『源義経』(吉川弘文館 1966)


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