■義経記1
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■2005.01.08 史実と説話と伝承と

源義経を考える時、史実と説話・伝承の間の壁を絶えず意識しておくことが必要です。その壁が堅固なものであったら問題はありません。しかし、その壁は自由にすり抜けることができる薄い布のカーテンのようなもので、一般に知られている義経の事績の中にはその両者がないまぜになっています。
源義経は、『平治物語』『平家物語』『源平盛衰記』などの軍記物語に登場します。その後、『義経記』が現れてからは、義経伝説はどんどんと膨張していき、ついには謡曲や歌舞伎で盛んに取り上げられるまでになりました。その中では、義経は平泉で自殺せず蝦夷(北海道)に落ち延びたとか、大陸にわたってジンギスカンになったとまでされてきたのです。さらには、義経の遺跡と称する地も東北の各地に実際に伝承されています。
「判官(ほうがん)びいき」という言葉は、薄命な英雄・義経に対し、愛惜し同情することから生まれ、転じて、弱者に対する第三者の同情や贔屓を意味してます。
たしかに『義経記』に描かれる義経の、不遇な少年時代の生い立ちと、平泉までの艱難辛苦の逃飛行は、悲劇のヒーローになる資格十分です。
京都には義経伝説の史跡がたくさんあります。そのほとんどは、創作された説話の舞台です。しかし、人々が説話を生み出したと言う歴史的事実を考えると、伝説だからとおろそかにすることはできません。義経を慕う中世や近世の人々の気持ちになって、訪ねてみるのもおもしろいのではないでしょうか。
次回は、義経と説話を考える本を紹介したいと思います。

■2004.01.09 牛若丸誕生井

京都市北区紫野近辺には牛若丸(源義経)とその母常磐にゆかりの伝説地が集まっています。

現在の北区紫竹牛若町の付近は、牛若丸が生まれた所と伝承されています。町内には牛若丸誕生時に産湯に使ったという井戸が残され、「牛若丸誕生井」と刻まれた石碑が建っています。そのすぐ横の松の木の根元が牛若丸の「胞衣塚(えなづか)」(胞衣=胎盤)と伝えられています。


牛若丸誕生井


牛若丸誕生井の石碑の裏に回ると、使われていない古い井戸があります。


胞衣塚

■2005.01.16 義経記

義経記(ぎけいき)
源義経の不遇な生い立ちと悲劇的な末路を描いた軍記物語。成立は、室町時代初期から中期。著者未詳。全8巻。別名『判官物語』『義経双紙』『義経物語』とも。内容は、牛若・遮那王と呼ばれた幼少年期から兄頼朝との対面までを描く前半と、義経として北国落ちを描く後半に分けられ、平家追討の華々しく活躍した時代はほとんど描かれていない。義経の一代記である点、他の軍記物語と性格を異にし、とりわけ弁慶の活躍など説話文学的な要素が強い。義経伝説の源泉として、広く中世小説・中世舞曲・能・浄瑠璃、さらには歌舞伎の世界にも再生産されていった。


土佐日記 - Tosa Blog」で知られている松永英明さんが、新しく「義経日記 [Yoshitsune Blog]」を始めらました。

『義経記』については、参考文献にもあげている梶原正昭校注・訳『義経記』の解説、付録がわかりやすかったです。

【参考文献】
梶原正昭「解説」『義経記』日本古典文学全集31(小学館 1971)
山下宏明「義経記」『国史大辞典』

■2005.01.18 九条院雑仕常盤常盤

生没年未詳。出自未詳。常磐、常葉とも。義朝との間に全成、円成、義経の3人の子供をもうける。義朝と死別後、平清盛、藤原長成と再婚。清盛との間に、廊の御方と呼ばれた女子がいる。長成との間に、能成、女子がいる。文治2年(1186)、義経逃亡中、捕らえられ尋問をうける。その後の消息については不明。
九条院雑仕常盤。いったいどんな人物だったのでしょうか。
常盤は、九条院(藤原呈子〈しめこ〉・藤原忠通の養女で近衛天皇皇后)に「雑仕」として仕えていました。
「雑仕(ぞうし)」というのは、内裏や三位以上の貴族の家に仕える召使いのことをいいます。
『平治物語』では、主人の藤原呈子が立后のとき、都中の美女1000人の中から選ばれた美女と伝えています。
従来は、常磐は単なる召使いの美しい女性と考えられていきました。
しかし、最近の保立道久『義経の登場』では、常磐の「美女」という呼び方は単なる容貌のことではなく、女房に次ぐ身分を指していると推定しています。
常磐が「美女」として九条院へ奉仕していた関係で、平治の乱後の3人の子の助命にも、九条院の働きかけがあったのではないかということです。

下の写真は、京都市伏見区合同庁舎内にある「常盤御前就捕地」と書かれた石碑です。
平治の乱後、3人の子供を連れて逃げていた常盤が、平氏に捕らえられた場所であるという伝説地です。

下の写真は、京都市北区紫野にある「常盤井」です。

常盤が愛した井戸という伝説があります。
常盤井は京都の名水のひとつとして知られ、茶人に愛されました。

■2005.01.23 鞍馬寺

義経が預けられた鞍馬寺(京都市左京区鞍馬本町)は、京都の北の郊外にあります。宝亀元年(770)、鑑真の弟子鑑禎が毘沙門天を祀って創建したのがはじまりと伝えられています。
鞍馬寺に入った牛若は、禅林坊阿闍梨覚日の弟子となり遮那王となのりました。11歳の時に系図を見て自分が源義朝の子であることを知り、いつか平家を滅ぼし、父の敵を討とうと、昼は学問に励み、夜は武芸に励みました。さらには鞍馬山の奥僧正が谷で天狗に兵法を習ったといいます(『平治物語』「牛若奥州下りの事」)。

 

※鞍馬寺のデジタル写真が無かったので、20年前の銀塩写真をスキャナで取り込みました。

■2005.01.30 鞍馬寺

鞍馬寺2NHK大河ドラマ第4回「鞍馬の遮那王」、いかがでしたか?
わたしは鬼一法眼に首ったけです。

鞍馬寺の義経史跡です。説明文は後日に追記します。


  
鞍馬寺山門                   川上地蔵


義経供養塔(東光坊跡)

 
牛若丸息つぎの水              遮那王背くらべ石・遮那王堂

 
義経堂                   不動堂(僧正ガ谷)


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