■義経記2
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■2005.01.31 鬼一法眼の伝説地

NHK大河ドラマ「義経」で鬼一法眼を美輪明宏さんが演じています。
その謎めいた魅力に、ぼんやりはメロメロです。
『義経記』に登場する鬼一法眼。
通説にいうように創作された人物なのか、その存在って何なのか。
鬼一法眼の伝説地に立って考えてみることにしました。
考察は後日に別エントリーとして、まずは史跡写真をご覧下さい。

堀川一条(京都市上京区)

写真は、安部晴明が式神を隠していたことでも有名な一条戻り橋。
『義経記』では、堀川一条の西に鬼一法眼の屋敷があったとしています。

鬼一法眼之古跡(京都市北区)

叡電の貴船口駅のそばクスの大木の下に、鬼一法眼之古跡という石碑が建っています。
ここは、鬼一法眼の屋敷跡とも墓とも伝えられています。

鬼一法眼社(京都市北区)

鞍馬寺の山門を入ってすぐに魔王の瀧と並んで、鬼一法眼社があります。

■2005.02.03 鬼一法眼

この比一条堀川のおんじやう寺法師に、鬼一法眼とて、文武二道の達者あり。天下の御祈祷してありけるが、これ(『六韜』)を給はりて秘蔵してぞ持ちたりける。

鬼一法眼
「きいちほうげん」(古くは「おにいちほうげん」)。『義経記』巻2に登場する一条堀川に住む陰陽師法師(古本には園城寺法師)。文武両道にすぐれ、兵法書『六韜』を秘蔵していた。


『義経記』によると、17歳の義経は、兵法書『六韜』の噂を聞き、一条堀川の鬼一法眼の館へと出かけた。義経は、鬼一法眼に面会して『六韜』を見せて欲しいと頼んだが断られてしまう。義経はあきらめず法眼の館にひそんで、法眼の娘と懇ろになり、娘の手引きによって密かに読破して暗記してしまう。『六韜』を暗記してしまった後は公然と婿のようにふるまう。怒った法眼は、妹婿で白川の印地の大将である湛海に命じ、義経を五条天神で待ち伏せして殺させようとした。しかし逆に湛海はその仲間とともに義経に斬り殺されてしまう。義経はその首を法眼の館に持ち帰り、法眼に投げつけて驚かし、館を去っていった。娘は義経を慕って焦がれ死にしてしまう。

【参考引用文献】
梶原正昭校注・訳『義経記』日本古典文学全集(小学館)

■2005.02.06 五条の大橋

京の五条の橋の上

今夜の大河ドラマは五条大橋での運命の出会いでした。
幻想的で美しいシーンでしたね。
現在、五条通の鴨川にかかる五条大橋のたもとには、牛若丸と弁慶の像が建っています。
しかし、平安時代の五条大路とは、現在の松原通のことです。五条通より2本北の通りです。
下の写真は、松原通にかかる松原橋。

■2005.02.10 義経と静の出会い

さてこそ静が舞に知見ありとて、日本一と宣旨を賜はりける

『義経記』では、義経と静御前が初めて出会ったのは神泉苑(京都市中京区)としています。
ある年、日照りが続き、神泉苑では百人の高僧が呼ばれて雨乞いのために仁王経を読みます。しかし、いっこうに効き目がありません。そこで今度は、容姿の美しい百人の白拍子が集められ、舞わせることになりました。九十九人の白拍子が舞ったのに、その効き目が顕われません。最後の一人、静が舞ったところ、雷鳴が響き渡り、3日間洪水のように雨を降らせました。このことで後白河法皇からは、静の舞が日本一であるという宣旨を受けました。
この時に、静は義経に見初められました。そして義経の堀川の御所に呼び寄せられ寵愛を受けました。

神泉苑の公式ホームページ
http://www.shinsenen.com/

NHK大河ドラマでの出会いの場面。
唐突すぎて、あれはいったいどこだったの?なぜに静はあそこにいたの?と、消化不良。

■2005.02.15 弁慶と義経の出会い

京の五条の橋の上

明治に作られた文部省唱歌「牛若丸」の最初のフレーズです。
この唱歌は、謡曲『橋弁慶』によるものとされています。
このフレーズによって、牛若丸と弁慶の出会いは京の五条橋と、誰もが知っています。
五条橋での出会いが一般化するのは、御伽草子で描かれてからです。
(『弁慶物語』では最初が北野社、次に法性寺、最後に清水から連れ立って五条橋と描かれています)

『義経記』では、まず五条の天神社で出会い、次に清水寺への参詣道の清水坂、最後の清水寺の舞台では弁慶は義経に組み伏せられ、君臣の契約を誓います。

五条天神(京都市下京区)


五条天神社(京都市下京区)は、鬼一法眼の娘婿との対決にも登場した場所です。
五条天神では、義経と弁慶のかわいい絵柄の入ったタオル(500円)、日本手ぬぐい(400円)、フキン(300円)がありました。
わたしは日本手ぬぐいをいただいて帰りました。

■2005.03.06 奥州への旅立ち1

義経の奥州への旅立ちに関する伝説地を紹介します。

まずは、首途八幡宮(かどではちまんぐう 京都市上京区)です。神社の由緒によると、この地に金売り吉次の屋敷があったと伝えられ、源義経が奥州平泉におもむく際、道中の安全を祈願して出立したといわれています。
金売り吉次は、義経を奥州へ伴った人物として『平治物語』や『義経記』に登場します。その正体は、いろいろな説がありますが、実在した人物であるかどうかはわかりません。


昨年の9月、境内に「源義経奥州首途之地」の石碑を建立されました。下の写真は、除幕式にかけつけて撮影したものです。


首途八幡宮の北隣に、桜井公園があります。公園の中には、西陣五水(染殿井・桜井・安居井・千代井・鹿子井)に数えられた桜井が復元されています。桜井は、「牛若首途の井戸」また「吉次の井」ともいいました。

首途八幡宮ホームページ
http://www.nishijin.net/kadodehachimangu/index.htm

もうひとつ京都市内には金売り吉次の邸宅跡と伝えられている場所と首途の井戸があります。
妙心寺のそばの願王寺(京都市右京区)には、義経かどで地蔵尊が祀られています。この辺りを「木辻」と呼ばれていたことから、「木辻」の音が「吉次」に通じて、金売り吉次の邸宅があったといわれました。願王寺の略縁起によると、地蔵菩薩は吉次の守り本尊でした。義経が、奥州平泉への旅立ちに際し、道中安全を祈願し、宿願を果たしたといういわれがあります。


すぐそばの妙心寺道沿いの民家の前に、「牛若丸首途乃井」の石碑が建っています。今は井戸はありませんが、民家の内には「義経姿見の井戸」と呼ばれた井戸がありました。奥州平泉に下る時、姿をうつしたと伝えられています。

【参考文献】
井上頼寿『京都民俗志』

※まっきぃさんのブログ「源義経の奥州下りルートの謎を解いちゃうブログ」では、金売り吉次の調査記録など参考になる記事があります。

■2005.03.13 平泉

今日の大河ドラマ義経では、タッキー義経が平泉入りを果たしました。
わたしが平泉へ初めて旅行したのは、1992年。
柳之御所遺跡の発掘調査の現地説明会でした。
その時の、古い写真をスキャナしました。

柳之御所遺跡とは、奥州藤原氏の政庁「平泉館(ひらいずみのたち)」の跡と考えられる場所です。


下の写真は復元整備された毛越寺の大泉池です。
『吾妻鏡』によると、毛越寺は二代基衡が造営した寺院とされています。


毛越寺のホームページ
http://www.motsuji.or.jp/

中尊寺のホームページ
http://www.chusonji.or.jp/

平泉文化遺産のホームページ
http://www.iwate21.net/hiraizumi/

【参考文献】
斉藤利男『平泉 よみがえる中世都市』岩波新書

■2005.03.20 奥州への旅立ち2

京都市内と山科をつなぐ街道沿い、日岡峠を境として京都寄りを「蹴上(けあげ)」といいます。この地名の由来には、義経伝説が関わっています。
京都の近世の地誌『山城名勝志』巻第13(『新修京都叢書』第14)には、次のように書かれています。

○蹴上水{在粟田口神明山東南麓土人云関原與市重治被討所}
異本義經記云安元三年初秋ノ比美濃國ノ住人關原與市重治ト云者在京シタリ私用ノ事有テ江州ニ赴タリ山階ノ辺邊ニテ御曹司ニ行逢重治ハ馬上ナリ折節雨ノ後ニテ蹄蹟ニ水ノ有シヲ蹴掛奉ル義經其無禮ヲ尤テ及闘諍重治終ニ討レ家人ハ迯去ヌ
(美濃国の侍関原与市と従者の一行が、山科(山階)あたりを通りかかった時、過って義経に水溜まりの水を蹴りかけてしまった。それを咎めた義経と争いになり、義経は与市と従者を斬り殺してしまう。)




日岡峠を境として山科よりを九体町といいました。九体町は、斬り殺された与市ら9人の菩提を弔うために村人が石仏を9体安置したのが地名の由来とする伝承があります。この9体の石仏のうち6体は無くなくなりましたが、3体は街道筋に残されているといいます。下の写真の左側2体がそうです。左の1体は、街道筋の北側にまつられています。中央の1体は、日向大神宮の鳥居をくぐり、神宮へ行く参道の途中に、義経大日如来としてまつられています。もう1体は、街道沿いにあるらしいのですが未見です。竹村俊則先生の「京の牛若丸とその一行」(『京都伝説の旅』所収)によると、日岡付近は昔粟田口の刑場があったところで、石仏は刑死者の菩提を弔うために作られたものだと考えるのが妥当のようです。



日岡峠からさらに進んだ山科区御陵血洗町には、「血洗いの池」または「義経刀洗い水」「与市の首洗い水」と称する池と「牛若丸腰掛石」という伝説地が残っています。義経と与市一行との争いの伝承から生まれたものです。
「牛若丸腰掛石」は、京都薬科大学(京都市山科区)のグラウンドの隅にあります。牛若丸が、金売り吉次に連れられて京都から奥州平泉に下る途中、休憩して腰掛けた石だという伝承をもっています。「血洗いの池」は、腰掛け石のすぐそばです。

また、義経が奥州下向の折りに祈念したといういわれを持つ恵比須像が、粟田神社の境内にまつられています。この像は、もと粟田山字夷谷にあったものが、明治に粟田神社へ移されたそうです。
このように粟田口から山科を抜け奥州へ向かう街道にそって、義経の伝説地が多く残されているのはとても興味深く思います。


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