■巻5
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■2005.02.20 福原〜夢の都

祇園神社から福原を眺望


福原は、現在の兵庫県神戸市兵庫区の北半分から中央区の西端付近に当たります。
平清盛は仁安3年(1168)に出家し、福原の山荘に隠居します。
清盛は春秋に福原やその南方の和田(輪田、現神戸市兵庫区南部及び長田区)で千僧供養を行い、後白河法皇もしばしばここに臨幸しています。
福原に隣接した和田の地には大輪田泊を設け、瀬戸内海航路と日宋貿易の基点となりました。また、兵庫島(経ケ島、現神戸市兵庫区中之島付近)を築造するなど、港の整備に力を注ぎます。

楠・荒田町遺跡で検出された二重堀


2003年12月、楠・荒田町遺跡(神戸市中央区・兵庫区、神戸大学医学部附属病院構内)の発掘調査で平家の福原に関係するとおもわれる二重堀の遺構が検出され、大きな話題になりました。

■2005.04.15 山木の夜襲

治承4年(1180)8月17日、源頼朝は、伊豆国の目代である山木判官平兼隆を夜襲し、勝利をおさめました。旗あげの第1歩です。
きっかけは、以仁王の令旨が叔父源行家より蛭ガ島の頼朝のもとに届けられたことです。
流人である頼朝を監視する立場にあった北条氏は、逆に頼朝を支援して大きな役割を果たしました。

右上の看板に、「この先の高台一帯が平兼隆館の跡です」と書かれています。



高台の入り口付近の個人宅に、山木兼隆邸跡の石碑があります。木の根本の石が、山木兼隆邸跡をしめす石碑です。

■2005.04.17 いざ東国へ!追討使出発

治承4年10月、富士川の合戦で平家軍は大敗北をします。水鳥の羽ばたく音を夜襲と勘違いし、戦わずして逃げ出してしまいます。

東国へ頼朝追討軍として向かう平維盛を大将軍とした軍勢は、治承4年9月21日に福原を立ち、22日は摂津国昆陽野に一泊し、翌23日に都に入ります。そして29日に東国へ向けて進軍しました(『玉葉』治承4年9月23日条)。

摂津国昆陽野とは、現在の兵庫県伊丹市内の古い地名です。
昆陽野には、奈良時代に行基が建立した昆陽寺、行基の築造と伝えられる灌漑用溜池である昆陽池があります。また古くから歌枕として和歌に詠まれてきました。
福原遷都の前に、遷都先の候補地としてもあがった土地でもあります。

下の写真は、昆陽池です。伊丹市によって昆陽池公園として整備され、市民の憩いの場となっています。水鳥の楽園です。



『平家物語』諸本の中で、昆陽野で一泊したことが記されているのは『源平盛衰記』のみです。『源平盛衰記』(巻第23)では、22日に福原を立ちその日は昆陽野で一泊し、24〜26日は都に逗留し、27日に東国へ向けて立っています。
福原からの出立日、京着の日、東国への出立日は、『平家物語』諸本、文献史料によって、少しづつ差があります。
この他に昆陽野は、三草山の戦いの前、源範頼が軍勢を整えた場所として登場します(『平家物語』巻9)。

■2005.04.19 推して鎌倉の主となす

東国皆その有道を見、推して鎌倉の主となす
「東国の人々はみな、頼朝の行動が道理にかなっているのをみて、鎌倉の主として推戴した」※


『吾妻鏡』治承4年12月12日条には、源頼朝が鎌倉の大倉郷に造らせていた居館が完成し、その居館への引移りの儀式のことが記されています。多くの武士たちがこれに従いました。侍所には出仕した者の数は311人。侍所別当の和田義盛は、その出欠を帳簿に記録しました。

大倉郷に造らせた居館跡には、大蔵幕府旧蹟の石碑が建っています。


源頼朝は、大倉の居館を邸宅および幕府の本拠としました。
以後、頼家、実朝、頼朝の妻北条政子が亡くなり、幕府が宇都宮辻子に移るまで、この地が政治の中心となります。
太田静六「鎌倉時代における貴族の邸宅」(『寝殿造りの研究』吉川弘文館 1987年)では、大倉御所が復元想定されています。

大蔵幕府跡の後方の大蔵山の中腹に、頼朝の墓があります。

この墓塔は、安永8年(1779)鹿児島藩主島津重豪によって整備されたもので、本来の墓塔ではありません。頼朝の廟堂は白旗神社の辺りにありました。持仏である観音を祀った観音堂が墳墓堂とされ、1周忌ごろに大規模に整えられ法華堂と呼ばれるようになりました。
和田合戦の時には、将軍源実朝が法華堂に避難しています。また宝治合戦の時には、三浦一族が500人が法華堂にたてこもり自刃しています。
法華堂は、明治時代の神仏分離のさいに廃寺となり、白旗神社が建てられました。

「鎌倉史跡碑事典」(運営Kamakura Citizens Net)では、鎌倉の石碑の写真、解説等の詳しいデーターを読むことができます。
http://www.kcn-net.org/sisekihi/index.html

※現代語訳は、石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』より引用。訓みは、野口実先生から教わりました。

【参考文献】
石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』(中央公論社)
貫達人「武家の棟梁」(『国文学解釈と鑑賞別冊 鎌倉のすべて』 至文堂 1986年)
石井進編『別冊歴史読本 鎌倉と北条氏』(新人物往来社 1999年)

■2005.04.24 鶴岡八幡宮

康平6年(1063)、石清水八幡宮をあつく信仰していた源頼義は、奥州を平定した後、石清水八幡宮を鎌倉由比郷に勧請、社殿を創建しました。鶴岡八幡宮の起源です。その場所は現在の材木座にある元八幡宮であるといわれています。
その後、治承4年(1180)、源頼朝が鎌倉に入ると、由比の若宮を小山郷北山(現在の若宮辺)に遷しました。

養和元年(1181)には、新たに鶴岡若宮の造営が始められます。
この造営にあたり武蔵国より大工が招かれ工事が進められ、無事に上棟を終えます。
この時、大工への録として馬が与えられたのですが、その馬を引く役目を頼朝は義経に命じます。義経は自分につり合う相手がいないことを理由に(馬は二人一組で引くもの)断わると、頼朝は激怒します。恐れをなした義経はすぐに馬引きの役目を実行します。つまり頼朝は、義経を弟としてではなく、 御家人として扱うことを明らかにしたのです(『吾妻鏡』養和元年七月二十日条)。

鶴岡八幡宮前の大銀杏


現在の本殿は、文政11年(1828)、江戸幕府11代将軍徳川家斉の造営です。また、2代将軍徳川秀忠が修造した若宮とあわせ国の重要文化財に指定されています。
鶴岡阿八幡宮はもとは「鶴岡八幡宮寺」であり、寺としては廃仏毀釈によって無くなりますが、神社として存続しています。

鶴岡八幡宮のサイト
http://www.hachimangu.or.jp/

【参考文献】
貫達人『鶴岡八幡宮寺ー鎌倉の廃寺』有隣新書(有隣堂 1996年)
貫達人・川副武胤『鎌倉廃寺事典』(有隣堂 1980年)

■2005.05.01 奈良炎上

猛火正しう押懸けたり。をめき叫ぶ声、焦熱、大焦熱、無間阿鼻の焔の底の罪人も是には過ぎじとぞ見えし。


(大仏殿の写真にフォトショップで描いたイラストを合成)
以仁王の挙兵以来、南都大衆の動きは不穏を極めました。
治承4年(1180)12月、清盛は重衡を大将軍として南都に討伐の軍勢を派遣します。
夜戦に入り、あまりに暗いので重衡が般若寺の門前に立ち、火をつけることを命じました。
おりふし風が烈しく、あっという間に燃え広がり、東大寺の大仏殿をはじめ、興福寺の堂塔伽藍がことごとく焼き尽くされてしまいました。

般若寺


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