■ 人生の終わり方〜淳和天皇

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人生の終わり方〜淳和天皇

淳和天皇陵のある小塩山
淳和天皇陵のある小塩山

 人間の値打ちが一番よくあらわれるのは、死の寸前のふるまいである、という。偉大な人物であっても、死を前にして見苦しいふるまいをすると、その人生全部が価値を失うように見えてしまう。願わくば、この世を去る時には自分の人生をきちんと総括しておきたいものだ。
 その意味で、見事な終わり方を示したのは、淳和天皇だと思う。彼は、歴代天皇の中でただ一人、散骨によって最期を飾った人物なのである。
 淳和天皇は、名を大伴という。桓武天皇の皇子であるが、自分に皇位がめぐってくるなんて思ってもみなかった。兄である嵯峨天皇の皇太子には、もうひとりの兄・平城上皇の皇子(高丘親王)が定められていたからである。それが、薬子の変によって変わった。平城上皇・高丘親王はともに失脚し、次期天皇の座は嵯峨天皇の信頼厚い大伴親王のもとにころがりこむことになる。
 嵯峨上皇は淳和天皇に限りない信頼をよせていた。上皇が愛娘の正子内親王を淳和にめあわせたのも、そのあらわれであった。上皇はみずからの子をさしおき、淳和の皇子恒世親王を皇太子に推すことさえした。平穏な淳和天皇の治世にはいつも、カリスマとしての嵯峨上皇の圧倒的な存在がのしかかっているように感じられた。
 淳和天皇にとって、兄上皇のこの厚遇はかえって重荷だったかもしれない。兄の勝気な后・橘嘉智子(檀林皇后)や、外戚の地位を虎視眈々と狙う藤原良房の存在も不気味だった。結局、恒世親王は立太子を辞退し、皇太子の地位は嵯峨上皇の皇子・正良親王(仁明天皇)のもとに移る。のち、淳和の怖れは不幸にも的中した。仁明天皇の皇太子だった淳和の皇子・恒貞親王は、嵯峨上皇の崩御とともに廃位されたのである(承和の変)。
 淳和上皇は、承和7年(840)、その五十四年の生涯を終えた。偉大な兄の影にひっそりとたたずむ、目立たぬ一生であった。上皇は死に臨んで、ひとつだけみずからの意志を押し通した。葬儀や山陵は一切無用だ。遺骨は山の上からまきちらせ。廷臣たちは、臨終の床にある上皇のこの決意を聞かされて仰天した。確かに薄葬は時代の流れであるが(嵯峨上皇も薄葬を遺詔した)、帝王の散骨などは前代未聞、空前絶後だ。しかし彼の堅い決意は変わらなかった。遺詔通り彼の遺骨は粉々に砕かれ、平安京を見おろす大原野の高い山の上からまきちらされた。無から出て無に帰る。人生のしめくくりとして、これほど見事なやりかたがほかに考えられるだろうか。

(朝日選書『平安の都』所収)

※このコンテンツでは、平安京探偵団団長・山田邦和の過去に発表した文章を掲載しています。



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