■ 平安京の葬送地

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平安京の葬送地

墓地の諸相

 平安京の周辺には,鳥部野(鳥辺野・鳥戸野)、蓮台野、宇太野、化野、神楽岡、深草山、木幡といった墓地が点在していた(1)。中でも有名なのは,藤原氏一門が埋葬された木幡(宇治市木幡)である。宮内庁が「宇治陵」として治定している範囲内に、小さな盛土をほどこした平安時代墳墓群が含まれている(2)。京西郊の化野もまた,化野念仏寺に移築されている大量の石仏群によってよく知られている墓地である。最近この一画(右京区嵯峨鳥居本化野町)から中国製陶器をもちいた骨蔵器が発見されている。褐釉陶器の四耳壺に金銅製の蓋をかぶせたもので、12世紀後半の墓であると推定されている(3)。
 平安時代の墓地の立地の一例として、寺院の境内やその付近があげられる。太皇太后藤原順子の発願によって建立された安祥寺下寺では、その寺域内に平安時代前期(9世紀後半)に木炭木槨墓が造られている(山科区安朱中小路町)(4)。これは墓坑に木炭をつめてそこに木棺を安置したもので,乾漆製品(鏡箱か?)・破鏡片・土師器皿が棺内に副葬されていた。外部施設としては若干の封土をもっていたらしい。仁明天皇の陵寺として建立された嘉祥寺(伏見区深草瓦町)では、その寺域内または隣接地に深草古墓と呼ばれる火葬塚がいとなまれていた(5)。こういった墓や火葬塚の被葬者は,いずれもその寺院に関係の深い人物であることが推定されよう。この場合の寺院とは、その墓の「墓寺」(陵の場合は「陵寺」)としての機能を果たすことになる。
 生前の邸宅内に墓を営む場合もある。平安京右京三条三坊十町跡で発掘された10世紀前半の木棺墓はその一例である(6)。化粧道具などの見事な副葬品を入れるところから,貴族の墓と考えてよい。京内への埋葬を禁じた律令に反してまで埋葬をおこなっているのは、被葬者とその土地とのつながりの深さを示すと考えてよいだろう。ここで想い起こされるのは、『宇治拾遺物語』(巻第三)にみられる次のような説話である。左京の高辻室町に住んでいた「長門前司」という人物の娘が死亡した。そこで遺体を鳥部野に埋葬しようとするが,遺体は何度運び出しても不思議と家に舞い戻ってくる。そこで女の家族は,やむなく家の中に遺体を葬った,というのである。荒唐無稽の伝説に思えるが,平安時代初期には死者を家の側に葬る風習が確認されるから(『日本後紀』延暦16年正月25日条)、邸宅内に墓を営むことはありえないことではなかったのである。
 平安時代の埋葬として忘れてはならないのは,古墳の横穴式石室を再利用するものである(7)。嵯峨野古墳群の一基である広沢1号墳(右京区嵯峨広沢池ノ下町)では,石室内に火葬骨をおさめた木櫃を安置し、土師器皿・須恵器瓶子・銭貨などを副葬していた。この際,家形石棺を砕き、その一辺に奇怪な神像(塞神[道祖神]と推定)を刻んでいることは興味深い。おなじく嵯峨野古墳群に属する音戸山5号墳(右京区鳴滝音戸山町)では、石室内に灰釉陶器の骨蔵器(薬壺)をおさめていた。このように再利用された石室のほとんどには須恵器小型瓶子や銭貨(皇朝十二銭)が副葬されており、そうした品物を使用する特別な埋葬儀礼の存在がうかがわれる。
 古墳を再利用した平安時代の墳墓の特異な例として、東山の山頂にある旭山古墳群(山科区上花山旭山町)のD−1号墳にも注目しておきたい(8)。この墓は,古墳終末期の小規模方墳(規模は3.7m×4.8m)の埋葬主体を完全に破壊し、その代わりに平安時代後期の土坑墓を作ったものである。墓の構造は,土坑の中に土師器の皿を敷き,遺体を置いて土をかぶせ、再度その上に土師器皿を置いたというものであった。この墓の土層断面図から、若干の盛土があったらしいことが読み取れるのは重要である。一遍上人の祖父の河野通信の墳墓(奥州江刺所在)がかなり大規模な盛土を持つものとして描かれている(『一遍上人絵伝』)ように、外部施設として恒久的な墳丘を築く墓も存在したのであろう。
 ただし、庶民にとって墓は必要不可欠のものではなかった。庶民の遺体は鴨川や鳥部野に運ばれて朽ちるにまかせられることも多かったのである。時には、空き家や路上に遺体が放置されることようなこともあったらしい。平安京右京七条一坊一・二町跡の発掘調査では、朱雀大路と左女牛小路の交差点が検出され、そこから未成年の人間の頭蓋骨が出土している(9)。京内においても、死体の遺棄がおこなわれることがあったのである。
 墓と類似する葬送施設として、「火葬塚」がある。方形のマウンドの周囲に溝をめぐらした大規模な火葬塚は、京都大学北部構内遺跡(左京区北白川追分町、鎌倉時代初期)や西陣町遺跡(長岡京市天神二丁目、平安時代後期)において発掘されている。西陣町遺跡の場合にはマウンドの上に石製の宝塔が安置されていたらしい。また,小規模な火葬塚の例は,旭山古墳群内の1号墳墓(山科区上花山旭山町)でも知られている。一辺1.3mの火葬土坑を、高さ40cmの配石および盛土で覆ったものである。平安時代には火葬塚が遺体を埋葬した墓よりも厚く祀られることも多かったから、注意が必要である。

平安京周辺の天皇陵

 考古学からみた天皇陵の問題はこの20年余りの間に急速に研究が進んだテーマであり,その結果として、古墳時代の天皇陵の信頼性の低さは今や学界の常識となったといってよい。しかしその反面、奈良時代以降の天皇陵についてはいまだに研究の蓄積が乏しく、宮内庁の治定を盲信する傾向が根強く残っている。天皇陵の写真が書物の挿図にかかげられていることもよく見るが、これなどは宮内庁の治定を無批判のままに受け入れていると言われてもしかたないであろう。もちろん、大規模な遺構を地表面に残すことが少ない平安時代の天皇陵の検討はかなりの困難をともなうが、かといって現時点の学問的水準による検証を怠るわけにはいかないのではなかろうか。
 そこで、平安時代の天皇陵を再検討してみることにしよう。今のところほぼ確実といえる天皇陵は、醍醐・白河・鳥羽・近衛・後白河・六条・高倉の7帝陵に限られると考えている(表1)。逆にいうならば,それ以外の天皇陵はいずれも、位置の比定を誤っているか、または妥当なようであっても確証を欠くものばかりだということになる。
 平安時代前・中期の天皇陵で唯一被葬者が確実と考えられるのは、醍醐天皇陵(伏見区醍醐古道町)である。同天皇陵の場合には醍醐寺が事実上の陵寺としての役割を果たして管理にあたってきた(10)し、鎌倉時代初期の『宇治郡山科郷条里図』によっても現陵が位置を誤っていないことが知られるのである。醍醐天皇陵は,文献史料からその構造が詳しくわかることによっても価値が高い(11)。すなわち,山陵の埋葬主体は一辺3丈の土壙の内に「校倉」(槨)をおさめ,さらにその中に棺を入れたものであった。副葬品としては、硯・御書三巻・黒漆の筥・琴・箏・笛・和琴が納められた。外部構造としての墳丘は造られなかったけれども、陵上には卒都婆三基が建てられ、後に周囲に空堀が掘られている。
 平安時代後期にはいると、確実と考えられる天皇陵の事例が増える。白河天皇陵(伏見区浄菩提院町)は、発掘調査によって一辺56mの方形で周囲に幅 8.5mの濠をめぐらすという構造が判明している(12)。この方形区画の中央に三重塔が建立され,そこに天皇の骨蔵器がおさめられたのである。この陵は鳥羽殿(鳥羽離宮)の域内にあり、同天皇陵の陵寺である成菩提院の境内に位置していた。このように、寺院の中に塔や御堂を建立して遺骨を納めるのは、平安時代中期以降に次第に一般化する天皇陵の形式である。鳥羽・近衛両天皇は鳥羽殿安楽寿院内の塔に、後白河天皇は法住寺内の法華堂に、そして六条・高倉両天皇陵は清閑寺内の法華堂に、それぞれ遺骨が納められている。後白河天皇陵の法華堂には、天皇の皇子女のひとりが供養したと推定される天皇像(鎌倉時代後期)が安置されている(13)。六条天皇陵と高倉天皇陵の場合、堂はすでに廃絶してしまったが、その基壇だけは今も確認することができる。
 一方、位置の比定に問題が残る例としては,仁明・光孝・後朱雀・後冷泉の各天皇陵をあげておこう。現在の仁明天皇陵(伏見区東伊達町)は江戸時代に荒地であったところを整備したものであり、平安時代の墳墓であるかどうかはよくわからない。仁明天皇陵はその陵寺として営まれた嘉祥寺と表裏一体の存在であり、嘉祥寺の遺跡は現陵の北約150mの付近(伏見区深草瓦町)にあたっていると推定されるから、仁明天皇陵もまた現陵より北方に考えたほうがよいことになる(14)。光孝天皇陵は仁和寺の西、仁和寺大教院の東北にあると記録されているのに対し,宮内庁治定の現陵(右京区宇多野馬場町)は仁和寺の西南,大教院推定地の東南にあたっており,史料的に矛盾がある。後朱雀・後冷泉両天皇陵は,円融寺(四円寺のひとつ)の跡地と推定される龍安寺の裏山(右京区龍安寺御陵ノ下町)に治定されている。ただ,両天皇陵をこの地に推定するのは根拠にとぼしく、実際の両陵は四円寺のひとつである円教寺に営まれたと見たほうがよい(15)。円教寺の推定地は仁和寺の東南方(右京区花園天授ノ岡町付近)にあたるから、後朱雀・後冷泉両天皇陵もまたその付近に比定するのが正しいと考えられよう。
 平安京周辺の墓地・葬地の研究は、まだまだ進んでいるとはいえない。考古学的に発掘調査された墓も数の上では微々たるものにとどまっているし、ましてや平安時代の墓地の全域が調査された例は存在しないのである。しかし、ここにあげただけでも、平安京周辺の墓地がいかに多種多様な様相を示すかは理解されよう。
 平安京の周辺には多数の天皇陵が存在する。しかし、文献史料の充実した時代の天皇陵であっても、現在の宮内庁の治定を盲信してはならないことは明白なのである。平安時代の天皇陵についても、絶えまない学問的検証が必要であることを強調しておきたい。

(1)平安京周辺の墓地については、山田邦和「平安京の近郊〜墓地と葬送」『平安京提要』角川書店,1994,で概観した。あわせて参照していただきたい。
(2)ただし、「宇治陵」に治定されている大部分は、実は古墳時代後期の大規模な群集墳である「木幡古墳群」である。「宇治陵」の一角に直径1m・高さ数十cmの小さな塚が群集している部分があるが、これが平安時代の墳墓群であると見られる。
(3)小檜山一良『化野の墳墓』[京都市考古学資料館リーフレット]No.59、京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館、1993。
(4)高正龍『木炭木槨墓を発見』[京都市考古学資料館リーフレット]No.61、京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館、1994。
(5)山田邦和「平安貴族葬送の地・深草」同志社大学考古学シリーズVI『考古学と精神』、同シリーズ刊行会,1994予定。
(6)平尾政幸ほか『平安京右京三条三坊』京都市埋蔵文化財研究所調査報告第10冊、同研究所、1990。
(7)辰巳和弘・山田邦和・鋤柄俊夫「京都府下における横穴式石室の再利用」同志社大学校地学術調査委員会調査資料No.19『下司古墳群』,同志社大学校地学術調査委員会1985。
(8)木下保明『旭山古墳群発掘調査報告』京都市埋蔵文化財研究所調査報告第5冊、同研究所,1981。
(9)京都市埋蔵文化財研究所編『昭和61年度京都市埋蔵文化財調査概要』同研究所,1987。
(10)大石雅章「平安期における陵墓の変遷」『日本古代葬制の考古学的研究』,大阪大学文学部考古学研究室、1990。
(11)『大日本史料』第1編之6。
(12)京都市埋蔵文化財研究所編『鳥羽離宮跡発掘調査概報』昭和58・61・62年度 京都市文化観光局,1984・1987・1988。
(13)毛利久ほか「後白河天皇法住寺陵の御像に関する調査報告」『書陵部紀要所収 陵墓関係論文集』、学生社、1980。
(14)註5に同じ。
(15)円教寺内に円乗寺と号する堂が建てられ、それが後朱雀天皇陵にあてられた。

表1 平安京周辺の平安時代天皇陵

平安京周辺の平安時代天皇陵

山田邦和「平安京の葬送地」(『季刊考古学』49 、1994年)を改訂【判定欄備考】
◎ 考古学的・文献学的に見て、宮内庁治定の現陵にほとんど疑問がない。
● 現陵またはその付近である可能性は高いけれども、決め手を欠いているためなんともいえない。
× 現陵は史料的に矛盾があり、別の候補地を求めたほうがよい。
▲ 現陵は古墳時代の古墳の可能性が高い。
□ 現陵よりも可能性のある場所を限定できる。または、ある程度の範囲の中で可能性のある場所を指し示すことができる。
■ 可能性のある別の候補地が指摘されており、検討の余地がある。
※ 薄葬によって葬られたため、真陵の位置を限定できる可能性は低い。

(『季刊考古学』第49号「特集・平安京跡発掘」掲載)

※このコンテンツでは、平安京探偵団団長・山田邦和の過去に発表した文章を掲載しています。



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