■ 華麗な武将墓

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華麗な武将墓

鍬形を持つ兜
鍬形を持つ兜
『法住寺殿跡 平安京跡研究調査報告書13』(古代学協会1984)より

 テレビの時代劇を見ていると、平安時代の貴族たちに同情したくなることがあります。「贅沢三昧で政治を忘れた、腐敗堕落した貴族階層」というふうに、あまりに紋切り型で一面的な評価がほとんどだからです。それに対して東国の武士たちは、必ずといっていいほど質実剛健で雄々しい正義の味方として登場します。
 こうしたステレオ・タイプの歴史像からはそろそろ脱却したいものです。実質的に死刑が廃止されていたことに象徴されるように、平安時代は世界の古代史上に類をみない平和の時代でした。この時代を築きあげた貴族層の役割を過小評価することは許されないでしょう。また、最近の歴史学の研究は、武士がいわば広域暴力団または職業的殺し屋といった存在であったことを見事に立証しています。第一、暴力を賛美し文治主義をあざ笑うような歴史の見方には、私は生理的な拒否反応を覚えます。
 とはいっても、平安時代後期以降、武士が次第に力をつけ、やがて巨大な権力を手にすることは事実です。少なくとも平安時代後期から鎌倉時代にかけての政治史は、貴族と武士との合作としてとらえられなければなりません。
 この時代の武士と貴族の関係をあらわすような遺構が、後白河法皇の御所であった法住寺殿(ほうじゅうじどの)の跡(京都市東山区)において見つかりました。それは12世紀後半の武将の墓です。3メートル×3.3メートルの方形の穴を掘り、その中に棺を埋納します。そして驚くべきことに、その棺の上に、五領の大鎧、金銀の象嵌をほどこした華麗な鍬形(くわがた)を持つ兜、金で繊細な鶴の模様を描いた馬具、といった数々の副葬品がおさめられていたのです。さらに、墓のそばには、供養をするためのお堂までが建てられています。
 この墓の発掘調査には例をみないほどの労力がかかりました。皮革を漆で固めた甲冑は、土の中に埋まっている間に腐蝕し、薄い漆の皮膜だけになってしまっていたからです。調査を担当した片岡肇さんと植山茂さん(現、京都文化博物館)は、一年間つきっきりで作業をおこなわねばならなかったほどです。
 ここで重要なのは、この墓が、院の御所である法住寺殿の一角に営まれていたことです。普通の武士ではとうていこんなところに葬られるはずはありません。この西南方に後白河法皇とその女御である建春門院平滋子(しげこ)の御陵があることも重要です。中世史学者の野口実さん(京都女子大学教授)は、この武将墓は、その強力な武威によって院の御所と御陵を守護するために造られたと考えています。野口さんはまた、この墓の被葬者の候補として、平清盛の長男であった内大臣重盛の名をあげています。この考えには否定的な史料もあるのですが、大変魅力的な仮説であることは確かです。
 平清盛が政権を掌握したり、源頼朝が鎌倉幕府を樹立しても、京都の貴族政権の政治力や重要性が失われたわけではありません。貴族と武士とは、時は協調し、時には反発しながらも、相互に役割を分担してこの時代の政治体制を構成していたのです。

(京都新聞連載「土の中昔むかし—考古学は語る—44」)

※このコンテンツでは、平安京探偵団団長・山田邦和の過去に発表した文章を掲載しています。



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