■ 平安京のシンボルタワー

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平安京のシンボルタワー

法勝寺復元模型
法勝寺復元模型

 京都は建物の高さに敏感な町だ。駅前に京都タワー(高さ131メートル)が建つときの騒動は大変なものだった。最近も、京都ホテルや京都駅の建て替えをめぐっててんやわんやの景観論争がまきおこったことは記憶に新しい。
 平安時代後期の京都には、高さ81メートルという超高層建築物が建っていた。洛東・白河の地に白河法皇が建立した法勝寺の八角九重塔である。現在残る東寺の五重塔(江戸時代初期)が高さ55メートルだから、法勝寺の大塔の巨大さはまさに想像を絶しするものがある。
 法勝寺をはじめとして、白河の地には代々の天皇・上皇・女院たちの御願によって建てられた六つの寺院が並んでいた。尊勝寺・最勝寺・円勝寺・延勝寺・成勝寺と、いずれも「勝」の字を共有するため、この六ヶ寺を「六勝寺」と通称している。これらの寺院は、単なる宗教施設ではない。法勝寺が「国王の氏寺」と呼ばれたことからもわかるように、それは政庁と宮殿と寺院の性格を兼ね備えた複合施設であった。さらに六勝寺の周辺には、多数の院御所や寺社が集まっていた。法勝寺の大塔を中心として広がる白河の地こそ、平安京の発展がつくりあげた新都心であり、院政期という新しい時代を象徴する計画都市だったのである。
 最近、高橋康夫氏(京都大学工学部助教授)によって法勝寺八角九重塔の推定復元図が作成された。相輪の高さだけでも二十mを超すというものすごさだ。最下層には裳階(飾り屋根)がつけられ、外観からは十層に見える。屋根の重なりが多いこともあって、われわれが見慣れた三重塔や五重塔に比べるといかにも重量感にあふれているのが特徴である。それでも、ある種の洗練された華やかさを失っていないのは、屋根が瓦葺でなく檜皮葺に復元されているせいであろう。
 あえてこの巨大建築の欠点をあげるなら、それは落雷に会いやすいことであろう。避雷針の知識のなかった当時であるからやむをえないことだ。法勝寺大塔も、嘉応元年(1169)、承安4年(1174)、安元2年(1176)、承元2年(1208)と、たてつづけに落雷の被害を受けている。安元2年の落雷では2名の死者が出たし、承元2年の落雷ではついに塔自体が焼失してしまう。この後、塔はすぐに再建されたが、それも南北朝時代の暦応五年(1342)の火事で焼失し、この巨大な塔は地上から永遠にその姿を消してしまったのである。

(朝日選書『平安の都』所収)

※このコンテンツでは、平安京探偵団団長・山田邦和の過去に発表した文章を掲載しています。



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