■ 鳥羽の水閣

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鳥羽の水閣

城南離宮石碑
城南離宮石碑

 『平家物語』巻4に、「法皇流され」「城南離宮」という項がある。治承4年(1179)、平清盛がクーデターをおこして後白河法皇から政治の実権を奪い取った事件を描いたものである。法皇が幽閉された「城南離宮」とは、平安京の南の郊外に営まれた鳥羽殿(鳥羽離宮)のことであった。贅をつくした鳥羽の御殿も、失意の法皇の目にはなんとも寒々とした風景に映ったことであろう。
 ここで注意していただきたいのは、『平家物語』が「あかつき氷をきしる車の音、はるかに門前によこたはれり。ちまたをすぐる行人征馬のいそがはしげなる気色、憂き世をわたるありさまも、おぼしめし知られてあはれなり」という光景を描いていることである。鳥羽殿から一歩も出ることを許されない後白河法皇であったが、その耳にも離宮の門前に朝早くから行きかう人馬や車の響きが聞こえていたのである。ひっそりと静まりかえった離宮の内部と門前のにぎやかな雑踏。この両者はなんと鮮やかな明暗をなしていることであろうか。
 それでは、格子なき牢獄となっていたはずの鳥羽殿の門前が、なぜこうも賑わっていたのであろうか。これを解く鍵は鳥羽殿に隣接する大きな池にある。桂川と鴨川が合流するこの池には、大阪湾からさかのぼってきた舟のための港、「鳥羽の津」が設けられていたのである。ここで上陸した荷物は車や馬に積み替えられ、港に接続した「鳥羽の造り道」という大きな道を平安京へ向かうことになる。この道路をまっすぐ北上すると、平安京の正門である羅城門の跡を通って朱雀大路へと入ることができるのである。すなわち、鳥羽の地とは単なる院の別荘にとどまるものではなく、平安京の南の玄関口であった。鳥羽殿の門前が終日賑わっていたのも当然であろう。
 鳥羽殿は、池のほとりという自然条件を存分に生かした御所であった。池の水面には、金剛心院・勝光明院・証金剛院などの御堂の華麗な建築が影を落とし、舟から陸を仰ぎ見る人々に現世の極楽を感じさせる役割を果たしたのである。鳥羽殿はまた、京内では考えられない広大な面積をもつ御所であった。その規模は、東西1キロ、南北800メートル以上におよんでいたのである。もはやこれは単なる邸宅というレベルをはるかに凌駕しており、ひとつの都市と呼ぶほうがふさわしい。時の人々はこの離宮の造営を指して、あたかも都遷りのようだと噂したが、それも決して理由のないことではなかったのである。

(朝日選書『平安の都』所収)

※このコンテンツでは、平安京探偵団団長・山田邦和の過去に発表した文章を掲載しています。


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