■ 大極殿の姿

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大極殿の姿

大極殿跡の説明板
大極殿跡の説明板(千本丸太町の交差点)

 京都の歴史に関心を持つ人であれば、千本丸太町の交差点の西北の公園に大きな石碑が立っていることをご存じであろう。明治28年(1895)、平安奠都千百年を記念して建立された「大極殿遺址」の碑である。大極殿は平安宮の中心となる朝堂院の正殿であり、平安京のシンボルともいうべき建物であった。
 しかし、この石碑の場所は、大極殿の位置を正確にあらわすものではない。最近の発掘調査のデータを総合するならば、この石碑の場所は大極殿の北側に巡らされた回廊(大極殿院北廊)の跡にあたっていると考えられるのである。大極殿の中心はこの南東、千本丸太町の交差点の西北の角あたりであると推定される。
 平安宮朝堂院の跡から出土する瓦には、前代の長岡宮で使用されていたものがたくさん含まれている。つまり平安宮朝堂院は、長岡宮朝堂院の建物を移築したり、その部材を再利用したりして造られたものが多かったのである。朝堂院こそは新しい都の象徴であったから、工事が急がれたのも当然であろう。使えるものは使っての突貫工事、それが平安宮朝堂院の造営であった。
 平安宮の大極殿は三回の焼失と再建を繰りかえしたことが知られているから、あわせて三次の大極殿があることになる。第一次は平安建都時から貞観18年(867)まで、第二次は元慶三年(879)から康平元年(1085)まで、第三次は延久4年(1072)からから安元三年(1177)までということになる。また、保元2年(1157)の大内裏の修造の際には、大極殿も大々的に修理が加えられ、面目を一新したらしい。
 このうち、我々に最もなじみがあるのは第三次大極殿である。その秀麗な姿が『年中行事絵巻』に鮮やかに描き出されており、平安神宮の拝殿がそれを縮小して造られているからである。それによると、第三次大極殿は屋根に金色の鴟尾を載せた単層入母屋造の建物であった。一方、第二次大極殿は屋根が入母屋造ではなく寄棟造であった。第一次大極殿の姿については史料が少なく確証がないが、建築史学者高橋康夫氏は重層(屋根を二重に重ね、外見からは二階建てに見える建物)入母屋屋根の堂々たる建築物に復元する案を提出している。
 江戸時代、大極殿跡の付近では「聚楽土」という良質の粘土の採取がさかんにおこなわれた。そのために、大極殿の基壇は完全に削平されてしまったのである。今から思うとまったくうらめしいことである。

(朝日選書『平安の都』所収)

※このコンテンツでは、平安京探偵団団長・山田邦和の過去に発表した文章を掲載しています。


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