■室町幕府の滅亡

▲home


室町幕府の滅亡

足利義昭木像
足利義昭木像(等持寺)

 頭の隅にこびりついて離れない疑問がある。室町幕府はいったいいつ滅んだのだろうか?
 こんなことを言うと高校生にだって笑われるかもしれない。何を言っているんだ、日本史の教科書にちゃんと書いてあるじゃないか。「天正元年(1573)、最後の将軍足利義昭は織田信長によって京都を追放され、ここに室町幕府は名実ともに滅亡した」。
 ところが、私はある時、朝廷の官職年譜である『公卿補任』を読んでいて不思議なことに気づいた。将軍義昭の名が、幕府滅亡の天正元年以降も、何の変わりもなく書き記されているのである。信長の横死や豊臣秀吉の関白就任も知らぬげに、次の年も、またその次の年も、「従三位権大納言兼征夷大将軍源義昭」の名は延々と書き続けられている。そして、いいかげんこのオン・パレードに飽きた頃、天正16年(1589)になってやっと辞職記事が出てくる。「権大納言 従三位 足利 源義昭。五十二 征夷大将軍。在大坂。正月十三日落髪。准三宮消息宣下」。すなわち、秀吉の天下統一が目前にせまった時まで、少なくとも形式の上では義昭は現職の征夷大将軍でありつづけのである。
 これはいったいどういうことなんだろう。征夷大将軍といえば幕府首班の地位を最も端的に示す官職のはずだ。幕府の「滅亡」から15年後まで、追放された将軍が依然としてその地位を保っているとは! 私は、不思議な思いのままこの記事を見つめる。もちろん、名目の上で将軍が存在するから幕府が存続していた、などという形式論を主張するつもりはない。追放された義昭は、この後も幕府再興をめざして様々な政治活動をくりひろげるが、いかにひいき目に見ても彼はもはや一介の亡命政権の主にすぎない。武家の棟梁の座は、明らかに信長に、ついで秀吉のもとに移ってしまっている。しかし、それにもかかわらず、義昭は将軍職を剥奪されてはいなかったのである。
 その後、私は、今谷明氏の『守護領国支配機構の研究』の中に別の史料を見いだし、再び驚きの声をあげた。これは、ある寺院の敷地に関する室町幕府の奉行人連署奉書である。
「永養寺敷地四町々東者限西洞院川西者限油小路町北者限高辻町南者限五条通堀事、被仰付畢、可被存知由被仰出候也、仍執達如件
  天正七 八月十三日
       (松田)藤弘(花押)
     (飯尾貞通)昭連(花押)」
問題はこの日付だ。天正7年といえば、義昭追放から6年も後のことではないか! もちろん織田政権の管理の下でのことであろうが、この期に及んでもなお、室町幕府の官僚機構はその機能をはたし続けていたのである。室町幕府は確かに信長の手で殺害された。にもかかわらず、ころがり落ちた首(義昭)は呪いの言葉をわめき続けているし、切り離された手足(官僚機構)はなおピチピチと跳ね回っている。私は、室町幕府のこの異様な生命力に衝撃を受けたのである。
 さらに不思議なのは、天下人たる信長や秀吉が、現職の将軍としての義昭の地位に遠慮していた形跡が見られることである。上島有氏によると(「殿下と将軍」『日本史研究』343)、信長や秀吉の知行関係の文書には竪紙(将軍の正式の文書形式)ではなく、折紙(従属文書の形式)が使用されているという。また、義昭は将軍の重要な権限のひとつである「公帖(禅宗五山の住持の辞令)」の発行権を握り続けており、秀吉は関白任官の直前までその権限に干渉していないというのである。
 ここで重要なのは、将軍の地位を望んだ秀吉が、義昭の猶子となることを望んだという伝えである。従来これは、将軍になりたいあまりの秀吉の苦しまぎれの行動であったと言われているが、そんな茶番劇と理解しては秀吉が気の毒だ。これは、天下統一を目前にした新政権が、現職の征夷大将軍を戴く亡命政権に向けて発信したメッセージにほかならない。秀吉が、力づくの簒奪ではなく、中国史によくあるような、条件をととのえた上での穏やかな王朝交替を望んだことは明らかである。義昭が拒否しなければ、日本史上初めての「禅譲」による政権交替が実現したはずだった。
 義昭の将軍職の存続には、正親町天皇ひきいる朝廷側の意向が多分に働いていたはずである。朝廷にとって室町将軍の亡命などは別に珍しいことではないし、政治情勢の変化によっては義昭の帰京の可能性もないわけではない。そうした中で将軍解任を断行するなど、朝廷としては危険きわまりない賭けだ。天皇は、天下の帰趨が完全に定まるのを見きわめるまで、将軍職を義昭のもとに凍結保存しておく道を選んだのであろう。正親町天皇の判断力の明晰さには、確かに驚くべきものがある。
 室町幕府への死亡宣告、それがおこなわれたのは確かに天正元年であった。しかし、その死体は防腐剤をたっぷりと詰めこまれて秀吉の天下統一までもちこたえたのである。私は、室町幕府の滅亡の過程をたどることによって、当時の複雑な政治情勢の一端が理解できたような気がした。   

(『土車』より)

※このコンテンツでは、平安京探偵団団長・山田邦和の過去に発表した文章を掲載しています。


▼平安京よもやま話index
(C)平安京探偵団