■ 謎の石棺
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仏国寺石棺  古御香宮社石棺の台座
仏国寺石棺と古御香宮社石棺の台座

 京都市伏見区大亀谷の仏国寺境内に、上の写真の石棺が置かれています。仏国寺境内で、大正時代に発掘されたものです。中には火葬骨をいれた壺がはいっていました。石棺は、花崗岩の切石造りで、長さ2.60メートル、幅1.28メートル、高さ1.13メートル。天井石は4枚、底石は5枚、側石は4枚からなっていおり、天井石の中央付近には、径39.5センチメートルの孔が開けられています。
 寺の北側には古御香宮社と、大亀谷陵墓参考地があります。また古御香宮社の社殿前には、この石棺の台座が存在します。
 さてこの石棺は、いったいどういったものなのでしょうか。

仏国寺境内、石棺の前にて
ラン>不思議な形の石棺やねえ。これ何やのん?

団長>地元の郷土史家の津田菊太郎さんが、これが桓武天皇の石棺やと主張しはったや。

ラン>え〜っ、桓武天皇陵? 桓武天皇陵は、伏見桃山城の下にあるんとちゃうの?

団長>今の桓武天皇陵は、幕末に治定されたもので、疑わしいんや。本当の桓武天皇は、どこにあったんかはまだわかってへんし、平安時代の天皇陵の研究も、まだまだ進んでへん。

ラン>なんか意外やわあ。この石棺が桓武天皇のものだとする根拠は何やの?

団長>平安時代から鎌倉時代にかけての伏見の様子を描いた「文安の伏見山図(伏見山寺宮近廻地図大概)」という古図があってね。このあたりに柏原陵が載っているんや。大亀谷陵墓参考地が治定されたのも、この伏見山図の記載からきているんやろうね。

ラン>そしたら、これが本当の桓武天皇陵と考えてもいいのん?

団長>それはたいへん難しい。まずこの石棺は、今までに類例がなく、時代も性格も判定することができひん。わかっているのは、仏国寺が造られた江戸時代初期より以前のものということだけや。ただ平安時代のものと考えるには、異例すぎて問題があるんよ。「伏見山図」も、室町時代前期に作成され、文安2年(1445)に書写したとされているけれど、その来歴に疑念があり、江戸時代の偽作と考えたほうがいいと思う。それらをあわせて考えると、この仏国寺の石棺は中世のものだという可能性を考えてみてはどうやろか。

ラン>桓武天皇とまったく関係がないということやの?

団長>僕の仮説だけど、中世にこのあたりから骨壷が出土して、それが当時の人々によって桓武天皇の骨壷だと考えられた、ということを想定したらどうやろ。これは大切なもんや、祟りが怖いなどということになって、新しく石棺を作って丁重に再埋納されたのやないかなあ。そう考えると、小さな骨壷がこんな大きな石棺に入っていたということも理解できるやろ。そしてその伝承が広まって「伏見山図」に採録されたと考えると、「伏見山図」の記載も矛盾なく解釈できる。つまり仏国寺の石棺は、平安時代の桓武天皇陵ではないが、中世に新造された「桓武天皇陵」ということうやね。

ラン>団長は、本当の桓武天皇陵はどこにあると考えてるん?

団長>今の明治天皇陵の西側、桃山丘陵の頂上だと考えてる。ただそうすると、真実の桓武天皇陵は、豊臣秀吉の伏見城建設ですでに破壊されてしまっていることになるんや。

写真は、1991年の撮影なので、現況とはかなり違っています。現在では、横の松の木が大木に成長し、石棺を覆い隠しています。

【参考文献】山田邦和「桓武天皇柏原陵考」『文化学年報』48同志社大学文化学会1999
【アクセス】仏国寺 京都市伏見区大亀谷、黄檗宗、京阪電車墨染駅東へ徒歩15分



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