■ 古墳の消滅
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 嵯峨野・太秦古墳群(京都市右京区)は、西は大覚寺、東は双ヶ岡まで東西南北3.5キロメートルにおよぶ台地と、その北側の山麓の丘陵にひろがっています。
 性格によって大きく3つのグループに分かれます。ひとつは台地の東南部に点在する大型前方後円墳を中心とする古墳群(首長墓)。次に、その前方後円墳の西北、広沢池から大覚寺大沢池付近にある大型円墳を主とする古墳群(有力者墓)。そして台地の北方の丘陵部に密集する小円墳の群集墳(その他の家族墓)。

 今回ご紹介するのは、2番目にあたる大覚寺の東南の台地に点在する円墳の25年前の写真です。当時考古学少年であった団長が、経過を追って撮影しました。円山塚古墳、南天塚古墳、入道塚古墳と並んでいましたが、学校(北嵯峨高校)の建設とともにどう変わっていったかをご覧ください。

■1975年5月2日

円山塚古墳、南天塚古墳、入道塚古墳
向かって左が円山塚古墳、中央が南天塚古墳、右の茂みが入道塚古墳です。
円山塚古墳、入道塚古墳は、陵墓参考地です。

■1975年8月4日

円山塚古墳、南天塚古墳、入道塚古墳
発掘調査がおこなわれ、南天塚古墳の石室があらわになりました。

■1975年11月ごろ

円山塚古墳、南天塚古墳、入道塚古墳
グランドの造成工事が始まり、原形がわからなくなってきました。

■1976年2月27日

円山塚古墳、南天塚古墳、入道塚古墳
ほとんどグランドに埋没しています。

■1976年春

円山塚古墳、南天塚古墳、入道塚古墳
学校が完成。南天塚古墳はグランドの下に眠ることになりました。



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