■足利義教を訪ねて
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足利義教の墓
左 足利義教の墓(十念寺)  右 足利義教首塚(崇禅寺)

 京都市上京区にある十念寺へ足利義教の墓を訪ねました。
 十念寺の墓地には、大きな墓塔がいくつも並んでいました。足利幕府6代将軍義教の墓もさぞやと思いながら、案内を乞うたご住職のあとについていきました。「こちらです。どうぞご自由にお参りください」と言われてびっくり。そこにあるのは小さな五輪塔でした。義教の墓を示す立て札があるわけでなく、案内されないとわからなかったと思います。義教に対する興味がどんどんとわいてきました。

足利義教と嘉吉の乱

足利義教木像
等持院に安置されている足利義教木像

 足利義教。室町幕府6代将軍で、足利義満の子です。はじめは義円(ぎえん)と称し天台座主となりましたが、4代将軍足利義持の死後、くじ引きによって次期将軍と決まり還俗しました。将軍についた義教は、専制的な政治を展開していきます。永享の乱で足利持氏をを討ち、次々と守護を粛清していきました。しかし、次は自分の番とおそれた播磨の守護赤松満祐によって殺害されてしまいます(嘉吉の乱)。足利義教の首は赤松氏の分国である播磨へ持ち去られ、死骸は等持院へ運ばれました。その後、首は相国寺の季瓊真蘂(きけいしんずい)により京都へもどされています。

 十念寺は、永享3年(1431)真阿上人に帰依した足利義教が誓願寺に一宇を建立したのがはじまりです。天正19年(1591)、秀吉の都市改造によって現在地に移転しました。

 大阪市東淀川区にある崇禅寺には、足利義教の首塚があります。赤松満祐は、摂津国中嶋(現在の崇禅寺のあたり)で首だけで葬儀を行おうとしました。満祐は、管領細川持之に使者をつかわしたところ、その使者は斬られてしまいました。満祐は、使者殺害を聞いて葬儀を中止し、首を奉じて播磨へ引きあげました。崇禅寺は細川持賢により義教の菩提を弔うために建立されたものです。

 兵庫県加東郡東条町にある安国寺にも、足利義教の首塚と伝えられる宝篋印塔があります。赤松満祐により安国寺でも盛大な葬儀が行われています。

【アクセス】十念寺 市バス河原町今出川下車 徒歩10分 崇禅寺 阪急京都線崇禅寺駅下車 徒歩5分
【参考文献】今谷明『足利将軍暗殺〜嘉吉土一揆の背景』新人物往来社 1994



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