■明智光秀の首塚
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明智光秀の首塚
明智光秀の首塚

 戦国武将・明智光秀は、天正10年(1582)6月2日、主君である織田信長を本能寺に襲撃して自刃させました(本能寺の変)。その後、6月13日、山崎合戦で秀吉軍に破れ、近臣とともに近江の坂本城に逃れる途中、小栗栖付近で土民に襲われ生涯を閉じます。
 『真説本能寺の変』(集英社 2002)を読み、最近、講談社現代新書から『謎とき本能寺の変』(講談社 2003)という本を読み始めました。本を読んだ影響か、昨年の大河ドラマ『利家とまつ』を熱心に見ていた影響か、京都から亀岡に抜ける明智越えを歩いてみたり、最期を遂げた小栗栖(京都市山科区伏見)の明智薮を訪ねてみたりしています。先日は、白川沿いにある光秀の首塚へお参りしましたので、紹介したいと思います。

 白川橋を南に下がった東側、和菓子屋・餅寅さんの横には「東梅宮 明智光秀墳」と刻まれた弘化2年(1845)の銘が入った石碑が建っています。その路地の奥に、光秀の木像と位牌を祀った小祠を中心に、五輪塔の笠石を重ねた光秀の首塚、「長存寺殿明窓玄智大禅定門」(光秀の戒名)と刻まれた石碑があります。かつてはこの祠の中に、光秀の遺品と遺骨が納められていたと伝えられています。「長存寺殿明窓玄智大禅定門」の石碑は、明治時代に光秀を演じた歌舞伎役者によって建立されたものです。光秀の木像は厨子の中に納められていて拝見することはできませんでしたが、祠の扉に光秀像の写真が貼られていました。
 餅寅さんは光秀の首塚の管理をしておられます。餅寅さんでは、「光秀饅頭」という銘菓を売っています。わたしもひとついただきました。薄皮のおいしいお饅頭でした。

光秀饅頭

 光秀の首塚は、もとはこの場所にあったのではありません。『京都坊目誌』によると、光秀の首は、粟田の刑場にさらされた後、そのすぐ近くの西小物座町の人家のうしろに、他の数千の首と一緒に埋められ塚が築かれました。後世、光秀の子孫と名のる明田氏が、その塚にあった石塔を自宅(現在地の東)へ移して祀ったのがはじまりです。明治維新後、現在地に移され、今も大切に祀られています。
 また、首塚は、首から上の病気にご利益があると信仰されているそうです。

【アクセス】首塚 白川通三条下ル 地下鉄東山駅 
【参考文献】
高柳光寿『明智光秀』人物叢書(吉川弘文館 1958)
藤田達生『謎とき本能寺』(講談社現代新書 2003)
安倍龍太郎・立花京子ほか『真説 本能寺の変』(集英社 2002)

 下の写真は、光秀が土民に襲われという小栗栖の明智薮(京都市伏見区)です。石碑が建てられています。周辺は住宅街となっていますが、わたしが行った時には、まだ少し周辺に竹薮が残っており、鬱蒼とした様子でした。

「明智薮」碑 と周辺の竹薮
 小栗栖にある「明智薮」碑 と周辺の竹薮

※京都市伏見区勧修寺御所町には光秀の胴塚があります。その写真も載せたかったのですが、どこに保存したのか見あたりません。見つかったら追加します。



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