■山中越の石仏たち

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北白川の石仏
北白川の石仏

 平安時代から京都と大津を結ぶ近道として利用された山中越(別名、志賀の山越・今道越とも)を歩くと、大きな石の仏さまに出会います。京都側の入口にあたる北白川の石仏、ちょうど中間地点の山中町の西教寺の石仏、大津側の入口にあたる志賀里の石仏。石仏たちは、この街道を通る多くの旅人たちの安全をずっと見守ってきたのでしょう。

西教寺の石仏・志賀の大仏
山中町西教寺の石仏         志賀の大仏(おぼとけ)

 京都と近江を結ぶ交通の要所として、東海道が走る逢坂越がよく知られていますが、その他にも小関越〈こぜきごえ〉・山中(志賀)越・途中越〈とちゅうごえ〉・仰木越〈おうぎごえ〉・如意越〈にょいごえ〉などがあります。その中で山中越は、別名「志賀の山越」ともいい、平安時代には歌枕として『古今集』などに多く取り上げられています。道綱の母や道長も、志賀の山越の道を通りました。そのルートは、滋賀里(大津市)から崇福寺跡・志賀峠を通り、山中町を経て北白川、京都へと通じています。山中(志賀)越は、平安時代には天智天皇が建立させた崇福寺への参詣の道として、中世には軍事の道として、また商品ルートの道として利用されます。しかし、江戸時代に入ると、西廻航路が開拓されたことで、忘れ去られていきます。

北白川の石仏(京都市左京区)

阿弥陀如来座像。鎌倉時代。
かつての白川村(現在の北白川一帯)の入口にあたる辻に祀られています。阿弥陀如来座像ですが地元の人々からは子安観音として信仰されてきました。お顔が風化して、ユーモラスな表情に見えます。別名「太閤の石仏」とも呼ばれています。それには次のような伝説が伝えられています。豊臣秀吉がこの地を通りかかった時、この石仏を気に入り聚楽第に運ばせました。すると夜になると石仏が不気味なうめき声をあげるので、もとの北白川の地に返されたということです。

西教寺の石仏(大津市山中町)

阿弥陀如来座像。鎌倉時代。
西教寺の門脇、街道に面して祀られています。地元では「薬師さん」として信仰を集めています。山中越を利用した旅人の目標として「一里塚」とも呼ばれています。

志賀の大仏(おぼとけ 大津市滋賀里町)

阿弥陀如来座像。鎌倉時代。
奈良時代、天智天皇が建立した崇福寺跡に向かう山道への入口に祀られています。地元の方々は「大仏講」をつくり、大切に信仰されています。お顔の優しい表情が印象的です。

【参考文献】
森本茂「志賀の山越えの<いはえ>考」(『奈良大学紀要』17号)
『滋賀県の地名』(平凡社)
林屋辰三郎・川嶋将生・鎌田道隆編『京の道ー歴史と民衆』(創元社 1974)





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