■天智天皇陵

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第38代 天智天皇

天智天皇陵
名前 葛城皇子 開別皇子 中大兄皇子 天命開別尊(和風諡号)
父/母 舒明天皇 / 宝皇女(皇極・斉明天皇)
生誕から崩御年 626〜671
在位期間 668〜671
陵墓(所在地) 山科陵(東山区山科御陵上御廟野町)



 考古学的には御廟野古墳と呼ばれています。山科盆地北辺の南向きのゆるやかな傾斜面に位置します。終末期古墳。上円下方墳といわれるが、正しくは上円部は八角形をなしています。下方部は二段築成で、上段は一辺46m、下段は一辺70m。ただし下段は南側のみに造成され、墳丘背後にはおよばない。また上段、下段とも石の列があります。正面には「沓石」と呼ばれる約2×3mの平坦な切石があります。
 陵地については『延喜諸陵式』に「山科陵 近江大津宮御宇天智天皇在山城国宇治郡 兆域東西十四町 南北十四町 陵戸六烟」とあり、山科には他に目立った終末期古墳がないことから、この御廟野古墳が天智陵であることはほぼ疑いありません。
 場所については問題がないが、築造年代はいつであったかについての問題が残ります。天智天皇の死後すぐに壬申の乱が起きているので、乱のさなかに古墳を築いたとは考えにくいです。
 ではいつ築造されたのでしょうか?『続日本紀』文武3年(699 没後28年)に天智陵を修築したとの記述があります。これはそれまで未完成だった天智陵を完成させたと考えても良いのではないでしょうか。

 天智天皇の死に関して不思議な話が伝わっています。
平安時代末期に僧皇円によって書かれた『扶桑略記』では、天智天皇が馬に乗って山科の里まで遠出したまま帰ってこず、後日履いていた沓だけが見つかった。その沓が落ちていた所を山陵としたといいいます。
 この話から天智天皇の死が暗殺ではないかという説もありますが、遠山美都男先生も指摘されているように(『天智天皇』PHP新書)、道教では仙人が姿を消して昇天する(尸解{しかい})するといわれていますので、この伝説は天智天皇が神仙であるということを示しているものなのです。聖徳太子、菅原道真にも同様な話があります。

『文化山陵図』   天智社?

 上の写真左は『文化山陵図』(山田家本)の天智陵の図です。
 この図には、「陵道山明王寺」という名が見えます。その寺が「天智天皇社の神宮寺」であるとしています(これは近世の地誌『雍州府志』を受けた説であるとのことです)。
この寺に興味を持ち探偵してみようということになりました。
 まず『史料京都の歴史・山科区』などで調べてみると「陵道山明王寺」は、もと天台宗でしたが黄檗宗万福寺派に改宗し「竜徳山妙応寺」と変わっています。この寺は、天智天皇のゆかりの伝説を伝えています。本堂に安置されている観世音菩薩の胎内仏は、天智天皇の冠中に納められていたものと伝えられています。かつて境内にあった「鏡池」は、天智天皇が昇天するときに姿をうつしたという伝説があります(池は現在埋められ、住宅地になっています)。
 また『山陵』(上野竹次郎編)には、天智陵の前には小祠がありましたが、明治初年にそれは妙応寺の鎮守社弁財天祠の傍らに移されたと書かれていました。
 妙応寺をお訪ねし、山門をくぐると2つの小祠が! ひとつは明らかに弁財天と見てわかります。ではもうひとつは天智社?(上写真右)
 あいにくご住職はお留守で奥様にお聞きしたところ左が弁財天、右が岩屋神社の分霊であるとのこと。天智天皇を祀っているとは聞いていないということでした。2つの小祠とももとは疏水近く(境内地)にあったが、伊勢湾台風で被害を受け現在地に移したとのことでした。
 しかしこの祠が天智社じゃないかという推測を捨てきれない探偵団でありました。

※追記(2010年2月)
「この話から天智天皇の死が暗殺ではないかなどトンデモナイことをいう人がいますが、」としていましたが、この説を唱える作家の方から抗議をいただきました。「トンデモナイ」という部分は確かに言い過ぎかと思いますので、訂正いたします。


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