■仁明天皇陵

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第54代 仁明天皇

仁明天皇陵

名前

正良

父/母

嵯峨天皇 / 橘嘉智子

生誕から崩御年

810〜850

在位期間

833〜850

陵墓(所在地)

深草陵(伏見区深草東伊達町)




 仁明天皇は、嘉祥3年(850)に清凉殿において崩じ、山城国紀伊郡深草に葬られました。山陵のそばには内裏の清凉殿が移築され、山陵を守護するための陵寺が造営されました。嘉祥寺がこれです。その後、摂政藤原良房は嘉祥寺に西院を建立し、さらにそれを独立させて貞観寺と改められました。仁明天皇山陵に関する文献史料の記載(『延喜式』諸陵寮、『日本三代実録』貞観3年6月17日・同8年12月22日条)を総合すると、貞観寺は独立した寺院とみなされていましたが、嘉祥寺は仁明天皇陵と表裏一体の存在として扱われていたようです。つまり嘉祥寺の寺域は仁明天皇深草山陵の兆域と同一のものであり、実際は寺域の中心部に嘉祥寺の伽藍が建ち並び、伽藍に隣接される形で深草山陵の本体が位置していたと推定されます。
 仁明天皇陵の正確な位置は、現在では不明になっています。宮内庁が治定する現在の深草陵は、幕末に治定されたもので、信頼性に欠けます。ただし、現仁明天皇陵の北方約250メートルにある善福寺(伏見区深草瓦町)では、境内付近から礎石や瓦が出土しており、これが嘉祥寺の遺構・遺物とみられています。仁明天皇陵の北限は、貞観3年には「峯」でありましたが、同5年にはこれは「谷」に改められました(『日本三代実録』貞観3年6月17日・同5年正月21日条)。貞観5年の詔と『延喜式』諸陵寮の記載を考え合わせると、仁明天皇陵は北を谷、南を純子内親王(嵯峨天皇皇女)家、西を貞観寺、東を大墓で囲まれ、東西一町五段・南北二町七段の範囲を占めていたことがわかります。ここでいう峯や谷とは、善福寺からさらに200メートルほど北方の、伏見区深草真宗院山町の丘陵およびその南側の谷であると推定されます。また、現仁明天皇陵北側の平安時代の貴族墓・深草古墓の発掘調査で多数の円筒埴輪が出土していることから、この埴輪を持っていた古墳を、仁明天皇陵の東にあった「大墓」の候補とすることができます。これらの事実を総合しますと、本来の嘉祥寺の寺域は、北限を深草真宗院山町の南の谷、南限を名神高速道路(現仁明天皇陵の北側)、東限を深草古墓の付近、西限をJR奈良線の路線付近という範囲を占めていたことが推測されます。すなわち嘉祥寺の寺域(=仁明天皇の兆域)は現在の深草瓦町のほぼ全域を占めていたと考えられます。

 2001年4月1日に善福寺をお訪ねしました。現在、本堂建て替え中のため礎石を移築されています(下写真)。建て替え工事が終了後は、元の位置に戻されるとのことでした。

嘉祥寺の瀬石   嘉祥寺の礎石

【参考文献】山田邦和「平安貴族の葬送の地・深草ー京都市深草古墓の資料」
     『考古学と信仰』(同志社大学考古学シリーズVI)


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