| おしえて№665 投稿者 にゃんPさん | ||||
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二宮金次郎は幕末の貧しい農民で、苦労しながら学んで成功した人です。努力して武士の身分にまでになった彼は、明治時代、農地改革に尽力をつくしました。 昭和の初めのころ、大日本帝国主義(だいにほんていこくしゅぎ)をとった日本政府は、彼の姿勢を戦争に利用するために、銅像にして全国に建てたのです。そのため、戦後、多くの銅像がとりはずされました。 でも、大日本帝国主義とははなれ、純粋に彼の業績や姿を奨励するものとして、銅像が建てられた学校もあります。 ★参考URL :こねっとサイバー図書館 http://www.wnn.or.jp/konet/tutor/syakai/histry/histry_q3.html 二宮金次郎(尊徳)は江戸時代末期に農民の子として生まれ、貧しい少年時代を過ごしました。彼は朝から晩まで真面目に働いていましたが、本を読む時間があったらその分働け、というわけで家では勉強させてもらえなかったのです。そこで銅像にあるように、薪を背負っての道中に本を読んで勉強したのでした。 おそらくその勤勉さが小学生の理想・手本としてふさわしいと考えられ、各地に建てられたのではないでしょうか。 金次郎は後その能力を認められ、各地で農村復興などに力を尽くしました。 ナスが大好きな金次郎はある年、その味がおかしいことに気付き、飢饉の到来を予測し、悪天候に強い作物の生産を奨励しました。果たして飢饉はやってきましたが、その地方では餓死者を出すことなく乗り切った、という逸話も残っています。 ちなみに私の通っていた小学校は比較的新しかったせいか銅像はありませんでした。小学校の図書館で二宮金次郎の伝記を読んでからは、銅像がある小学校がうらやましかったです。 <人物> 江戸後期の実践的農政家「二宮尊徳(幼名:金次郎/生没1787-1856)」は、父を14歳で母を16歳で亡くし、伯父の家で苦しい農耕をしながら「論語」「大学」「中庸」等を独自に学び、青年期に家を再興。後に小田原藩士服部家の再建や藩領下野桜町などの荒廃の復旧に成功し、この経験を元に独特の農法・農村改良策(報徳仕法)によって小田原・烏山・下館・相馬藩等の凡そ600村を復興。農村の生産力に応じた分度を定め勤倹を説き、その結果としての富を推譲(譲り合う)という社会的行為に導く報徳思想を広め、尊徳没後も多くの優れた門人によって、幕末から明治前期にかけて各地に報徳社運動を進め、農村の振興に貢献。明治10年代には政府よって注目され、門人の手による「報徳記(富田高慶)」「二宮翁夜話(福住正兄)」は相次いで天覧に供され、尊徳が政治体制を変化させずに農民の勤勉と倹約によって荒廃した農村を立て直した人物として理解され1889(明治22)年に従四位を追贈されました。 二宮金次郎の人物像の詳細は下記サイト等を御覧下さい。 参考URL:日本の偉人達 http://isweb18.infoseek.co.jp/school/skura/ni/ 面白半分/二宮金次郎(尊徳)について http://www2.justnet.ne.jp/~assoonas/UC96B.HTML <教育現場> 教育の場では、1900(明治33)年の検定教科書「修身教典」に尊徳が登場し、1904(明治37)年から使用された最初の国定教科書「尋常小学修身書」では孝行・勤勉・学問・自営という4つの徳目を代表する人物として描かれ、また唱歌では1902(明治35)年の幼年唱歌に現れ、1911(明治44)年の尋常小学唱歌には「柴刈り縄ない草鞋をつくり、親の手を助け弟を世話し、兄弟仲良く孝行つくす、手本は二宮金次郎」と歌われたそうです。 尚、「報徳記」を読んだ作家幸田露伴(生没1867-1947)が1891(明治24)年に少年少女向けの「少年文学」の中で表した伝記「二宮尊徳翁」で薪を担いで読書する金次郎像を提示し、その後の教科書にも影響を与えたようですが、そのイメージの原型は世界中で翻訳され日本でも度々翻訳されたジョン・バニヤンの宗教書「天路歴程」の1886(明治19)年翻訳版の挿絵に登場する背中に大きな荷物を背負って本を読んでいるクリスチャンの少年に求められるとする説もあるようで、本来は荷物=原罪、本=聖書って感じのようです。 情報源:『世界大百科事典(平凡社)』 参考URL:Ichiro's Home Page http://www03.u-page.so-net.ne.jp/ja2/kishimi/ninomiya.htm http://www03.u-page.so-net.ne.jp/ja2/kishimi/roku.htm <銅像> 一説には1910(明治43)年鋳金師岡崎雪聲が柴を背負っている姿の銅像を最初に製作し、これを天覧された明治天皇が気に入られた事がキッカケとなって銅器製造者の商魂に結びつき数々の外的要因が重なってなどの説があるようです。 でも、二宮金次郎の銅像が実際に全国の小学校に建立される要因となったのは、日本が14年戦争に突入したとされる1932−1933(昭和7・8)年頃からで、世の中は正に国家総動員体制に向かい国語教科書も「ハナハト読本」から皇国意識と国威発揚の色濃い「サクラ読本」に変更され、「教育勅語」の徳目と相まって、金次郎の勤勉・倹約等がクローズアップされ、それを促進するため象徴化されることで国策に利用される形で銅像建立が全国展開されるに至ったようです。 また1937(昭和12)年は金次郎生誕150年に当たることから報徳社の働きもあったようで、尚かつ1940(昭和15)年が皇紀2600年に当たることもあって、昭和10〜15年頃が銅像建立のピークだったようですが、戦局悪化・軍需物資不足に伴い1941(昭和16)年9月施行の「金属類回収令」に基づき、寺の仏具・梵鐘、家庭の鍋・釜はもちろん金次郎の銅像も例外に洩れず鉄砲や大砲の弾等に化けたようです。 その結果、銅像よりも石像なども多く存在するようで、敗戦時には或る種軍国主義の象徴でもあった金次郎像は打ち壊しの憂き目にもあったようですが、金次郎自身に対するGHQの評価は悪くなかったようです。国策に利用されたことで時代に翻弄された金次郎ですが、決して彼本来の業績が消えるものではないと思います。 又、金次郎像は製作者によって顔も違えば、柴も薪もあり、斧や印籠を持ったり笠や草鞋を持つものもあり、本の表紙も「論語」「大学」とバラバラだそうです。 参考URL:面白半分/二宮金次郎像 http://www2.justnet.ne.jp/~assoonas/ UC96.HTML トリップ「NO.1」 http://www.yaramaika.ne.jp/users/aiba/trip/NO.1/trip/kinjiro/ktext.html 戦前、二宮金次郎は「勤勉」のシンボルであったので、その銅像を学校に建てることが推奨された。 バブル期以降、勤勉を忘れた日本人は、学校の改修の際に二宮金次郎を撤去している。 二宮さんの銅像は、どのような姿であったでしょうか? そうです。これから、一生懸命勉強に励もうとする「子ども達」には「本」を読んでいる姿がまず、目に入ってくるでしょう。 そして、それを学校に送り込む親には、背中に積んでいる重そうな「薪(たきぎ)の束」が目に入り込むに違いありません。 金次郎さんはそうです。親には孝、自らには「刻苦勉励」を課した、今時さっぱりはやらない「道徳」の人であったのです。 親の仕事をどんどん手伝い、なおかつ、勉強に励む、こんなこどもであったらいいなぁ、という親のイメージが金次郎さんの銅像を日本中の小学校にふやしたのでした。 さて、それでは、今時の「金ちゃん銅像」は何がトレンド(流行り)なのでしょうか? 勉強は出来なくとも良いからスポーツ選手で一儲け、芸能人で一儲け、……親も子もどこかで軽い気持ちで「宝くじ気分」で自分の子どもの将来を夢見ています。 だから、「そんなはずはない、そんなばかな!」と両方で「キレる」のでしょうか? 軽くて良いことはいっぱいありますが、勉学は、どこか重さに耐えることでもあるのです。「金ちゃん」の姿を見ても、それはわいてきませんが、そんなイメージは必要でしょうね。 二ノ宮金次郎は、柴を背負い読書に励む姿で有名です。戦前には、修身(道徳)の教材として、当時の大日本帝国主義の象徴的人物として、教科書にも載っていたそうです。「苦学と親孝行」の象徴的人物です。後に、農地の復興に生涯を捧げる、立派な人物になりました。小学校に銅像があるのは、金次郎の精神を学びましょうということではないでしょうか。 二宮金次郎は勤勉の象徴です。 江戸時代の終わり頃、貧しい農民だったのに苦労して勉強をして、武士にまでなった人です。 そのために、まきを背負いながら(家の仕事を手伝いながら)本を読んで、勉強した立派な人だったのです。 その姿を手本にして、しっかり勉強してほしいという理由から小学校に多く銅像が立っているようです。 それはもちろん 学校の七不思議を作りやすくしようという親心です。
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でも、今は時間が無いから、イヤなことと楽しいことを一緒に出来るといいよね〜(ジムのバイクマシーンで読書)と感じます。 あ〜 子供の頃からこんな見方を出来ていれば大物になってたのに〜!? |
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| 正答者の方々です。本当にありがとうございました。 | |
| 超な兄貴さん・乱気流さん・gannacさん・そくらちゃん・浜ちゃん・のんきさん・Tsuneさん・かっくん★ |