おしえて№687 投稿者 チョガタさん
 テレビ番組で菅原道真の事をやっているのを見て疑問に思いました。
「左遷」とは中国で、右を尊び左を卑しむ習慣があったところから左が使われたと言いますが、左大臣は右大臣より位が上と言うのは何故なんでしょうか?
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のんきさん

欧州やアフリカでは右は善で左は悪という考え方があります。インドやインドネシアでは、物を手づかみで食べますが、必ず右手を使い、左は不浄の手で、排泄の処理に用います。
これに対して中国は左優位の文化といわれ、日本も左を上位に置いてきました。伊奘諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉尊(いざなみのみこと)が国産みをされたときも、伊奘諾尊が天の御柱を左へ巡られました。また、天照大神は伊奘諾尊が禊(みそぎ)で左目を洗った際に生まれたのです。現在でも、二人並んで座る場合、座っている人から見て左側が上座とされています。これは左手で心臓を守るため、表の手の働く右側で他人と接する方がよいからです。また中国で生まれ日本にも伝えられた基本的な哲学思想として陰陽五行説があります。自然界のあらゆる事象を陰と陽、五行に当てはめて分類します。易や風水もここから生まれました。左は陽で右は陰になります。気功や太極拳でも初動作は、左から始まります。「左に心臓があるからだと」と理屈好きの日本人は答えますが、中国人は「昔からやっていること」だとしか説明しません。ところがラテン語域では右手は幸福を示し、左手は不吉を現すそうです。表彰状や卒業証書を受取る時は神聖な左手からです。
また現在は車は左側、人は右側通行ですが、昔は左側を歩くことになっていました。これは左の腰に付けた刀がお互いにぶつからないようにしたためと、相手が右から来た方が刀を抜きやすいからで、イギリスでも同じです。
このことからわかるように、左大臣は右大臣より上位であるのです。
乱気流さん

 左右の何れを尊位とするかは、中国でも時代・王朝によって一様ではなく、概ね周時代には左を尊んだとされ、逆に戦国・秦・漢時代には右を尊び、この時代に「左遷」「左降」など左を卑しむ言葉も出現しましたが、六朝時代になると職官に関しては左を尊ぶようになり、唐時代(618〜907年)に入るとより一層広く左を尊ぶようになって、以後元時代を除いて清朝に至るまで各王朝とも左を尊ぶことが受け継がれたとされています。

 一方、日本では大小・上下にくらべると左右対比は比較的新しい意識のようで、遣隋使・遣唐使などを通じて当時の中国から影響を受けて唐の律令制を模範とする中で、645(大化1)年に左大臣を上位とする左大臣・右大臣の官職が初登場し、以後浄御原令、大宝令を経て太政官・大臣制が整備され定着するに至ったようです。

 当時模範とした中国・唐時代(618〜 907年)の律令制が左を尊位とすることから、飛鳥時代の日本では左大臣を上位とする職官制が採用されたようです。でもその一方では、「左降(万葉集)」「左遷(続日本紀)」など右を尊ぶ言葉の導入も見られ、「右腕」も使う反面「左うちわ」の表現もありますから、職官制での左優位が確立していたとは言え、他の言葉は左右混沌としています。

 これは、職官制の左右の優劣等は君主が南面した際の左=東、右=西などの概念的な意識であることに対して、より直感的な右利き優位の意識が潜在的にあったことによると考えられます。 また、フランスの中国学者ポール・マルセル・グラネ(1884〜1940年)の「中国における右と左」では、中国では概して左が尊ばれたが、これはかなり相対的なものであって、必ずしも右が卑しいというものではなく、場合によって変化があったとし、左右どちらを尊重するかは時代・王朝の変遷に限らず、方位・陰陽・男女・儀式の性質・当事者の社会的政治的序列などによっても交代し、矛盾もあったことを述べています。
参考図書:『漢語新辞典(鎌田正・米山寅太郎著)大修館書店』『世界大百科事典・平凡社』
トキヲさん ←疑問投稿者からのご推薦です。

 左大臣の位が上なのは・・・ 右と左の概念は視点によって異なってきます。 向き合ってる人の右はこちらから見ると左となりますよね。 左大臣と右大臣は君主から見ての左と右です。

 「天子は南面し、臣下は北面す」とあるように君主は南に向いているので、東は左、右は西。 京都でも御所から見て東が左京区、西が右京区ですね。 で、日の上る東が上座にあたるので左大臣が上位である。 という解釈はいかがでしょうか?

 じゃぁなんで左遷っていうの??? という疑問について考えてみました。

第1案:
 
縦書きだったから説 中国や日本では文書は縦書きだった。(木簡って木の短冊みたいのをつなげたものがありましたよね。) 官位を書類に書くときには上位の人から書いたとすると、縦書きは右から書いて行くので上位の人は右にくる。(縦書きの順位表をイメージしてください) そうすると官位が下がると左側に移ってしまうので「左遷」トップに立つと右側には誰の名前もないので「右に出るものはいない」

第2案:
 
自分たちの視線説 君主から向かって左が上位ということは臣下の者達からみると右が上位になります。
つまりは当事者達にとっては右が上位で左が下位になるので自分たちの視点で考えて「左遷」 こんな解釈はいかがでしょう??
☆左と右についての参考URL
中高年のパソコンライフ
http://www2.netwave.or.jp/~ynoguchi/frbunka.htm
人形 人形処橋本屋
http://www.oningyo.com/dolls/qanda/qanda.html
ガウリィさん

 左大臣は正二位ないしは従二位に相当し、職掌は、政務を統治し、綱目を掲げ持ち、庶事を惣判すること、つまり、太政官の政務を実質的に総裁します。(太政大臣は特に職掌が無く、また則闕の官→いない場合があった、ので。) また、弾正が糺すことのできないような事件・事柄があった場合、これを弾劾することができます。定員1名。

 右大臣は左大臣と同じく正二位ないしは従二位に相当し、職掌も左大臣と同じです。左大臣が欠員の場合や、何らかの事情で出仕しない場合、または、左大臣が関白を務めている場合などに、代わって太政官の政務を総裁します。定員1名。だそうです。

参考推奨URL:官制大観
http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/01_ref/kanshoku.html
そくらちゃん

 左遷の意味は、中国の文章が縦書きで右から左に行を変えていくことから、位が左に移るのは、位が落ちるので、それから発生したようです。
 しかし、右が優位、という風潮は、本家中国ではくるくる変わる出来事で、漢代には確かに<右>優位だったのに、日本の官位制度に強い影響をもたらした唐代には、それが逆転していたのです。遣唐使を送って最新の律令制度に学ぼうとしていた日本は、そのため、<左>優位を選んだのでした。
 それから、左大臣が上で右大臣が2番手、ということになったのでした。学問の神様、菅原道真も知識では<左>だったのに、藤原時平が<左>大臣だったばかりに、東風(こち)吹かば、と太宰府で我が身の<右>を嘆いたのでしょう。
Tsuneさん

 基本的に、左の方が位が下というのは事実のようで、「右に出るものはいない」などのようにも使われています。ところが、雛様の並び方からみるとそうばっかりはいえないようです。  
参考推奨URL:面白半分
http://www2.justnet.ne.jp/~assoonas/UC270.HTML
蓬莱さん

 時の朝廷で帝の右手(つまり帝の方を向く下々からは左)側にいたのが左大臣だったと記憶しています。 つまり左大臣は帝にとっては右側にいた訳です。
浜ちゃん

  天皇が真中で、向かって左が左大臣、向かって右が右大臣。 だから、左大臣を天皇から見ると右になるので、地位が上。

matsumotoさん

少なくとも奈良・平安時代の朝廷においては右よりも左の方が格上とされていたようです。
公式な場における席順は、天皇が南向きに座り、向かって左側(東)に左大臣、右側(西)に右大臣となります。
左(東)は日の昇る方角であり、日の沈む方角である右(西)よりも格上とされたのです。

超な兄貴さん

  責任は偉い人がとるものです。
 ですから,何かあったときには責任を全部押し付けるために作られたのが左大臣。
 つまり,実権は右大臣のほうがあったというわけですね〜 こわいですね〜
チョガタさんからの感想メールです。

 わかりやすくて、すんなり納得しました。 
 その時代、もっと言えばその政治的背景によって都合良く解釈をころころと変えていったのかもしれません。いわゆる日本国憲法憲法の解釈のようなものかもしれませんね。ちょっと違う??
正答者の方々です。本当にありがとうございました。
乱気流さん・ガウリィさん・超な兄貴さん★・そくらちゃん・トキヲさん・トキヲさん・トキヲさん・のんきさん・そくらちゃん・蓬莱さん・Tsuneさん・浜ちゃん・matsumotoさん

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