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武蔵国岩槻の住人、大田源五朗はのちに美濃守という官名を与えられる。源五郎は年少より犬好きで、あるとき武州松山の城を預かっていた。松山で飼っていた犬を岩槻に、岩槻で飼っていた犬を松山に移していた。源五郎が岩槻に居るとき、松山で一揆が起きてしまった。松山城代某は主の北条氏康公にご出馬願おうと岩槻の源五郎当てに密書を送ることにした。しかし、三人や五人の使者では到底包囲を突破できまいと思った。そこで内々に源五郎と城代が話していた、軍用犬の利用となる。文を書き、犬の首にかけて十匹はなした。犬は全速力で岩槻に走っていき、あっという間に源五郎は松山城へ後詰にきた。一揆の者たちは「こんなに早く太田さまの耳に届くとは、希代不思議な名人かな?」と思い、以来松山では一揆は起こらなくなった。伝書鳩ならぬ伝書犬であった。(甲陽軍艦) 篭城戦でもっとも効果がある攻め方は、水の手を切ることである。「常山紀談」での近江音羽城攻略の項で、「敵より見ゆる矢倉の前に馬ども数多く引き寄せ白くしらしげたる米を桶に入れて汲みかけ、人々裸になりて馬を洗う」とある。城中の飲料水が尽きかけているのをカモフラージュするための定法である。このような記載は安西軍策で毛利元就に攻められた青屋友海も行っているし、豊薩軍記でも大友を攻めた島津家久の項にもある。
負け色見える勝久の陣 (昔尼子といえば大勢力であったのに、今は尼子孫四朗勝久が不利である) |