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歴代城主+城代

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要約

 2000 年 8 月 5 日 (土曜日)、所用で遠州掛川、袋井に行って参りました。掛川には新幹線で 10:30 着。掛川は二時間ぐらい周り (掛川は人情のある町です)、袋井へ!袋井はお祭りの日でした。「何で俺だけ仕事・・・」って感じ!駅前に入りやすい茶店がなかったので、若い子達と共に、ベンチでプレゼンの練習!ちょっと恥ずかしかった!プレゼンは完璧に近かったのですが・・・ウナギ弁当をほおばりながら新幹線で遠州路を後にしました。


 

16:00 からの仕事なのに、8:00 のバスで東京駅へ。誰がどう見ても出張と言うより何かあやしい。しかしスタイルは出張スタイル!スーツで決めていましたが・・・

 東京駅 8:30 ぐらいのこだま号で遠州掛川へ。結構新幹線混んでいました。特に熱海までは 80-90 % の乗車率。実は掛川へ行くのは初めてでした。

 掛川城は、戦国時代の文明年間 (1469-86) に駿河の守護大名今川義忠が遠江支配の拠点として、重臣朝比奈泰ひろ (字が出ません) に築かせました。

 桶狭間の後、武田氏に追われた今川氏真は筆頭重臣朝比奈泰朝の居城である掛川城に立てこもった。掛川を攻めたのは徳川家康である。家康はなかなか掛川城を落とすことができず、そのうちに武田信玄は駿河一国を制圧してしまい、その勢いで大井川を渡ってくるおそれがあり、家康は焦っていたらしい。

 ある密命で城は開城し、永禄十一年十二月二十七日から翌十二年五月十七日まで朝比奈は守り抜き、掛川城は名城と言われるようになったそうです。(氏真は城中で蹴鞠をしていたらしい・・・)

山内一豊公騎馬像 (本写真は許可を得て掲載)

 秀吉の関東、奥州征伐の後に掛川に入ったのは、この山内一豊であった。石高は五万石であったが、秀吉は対家康戦のために東海道の諸城に信頼ある家臣を配し、石高以上の規模の築城を許した。天守が立てられたのもこの時代である。一豊は伏見城築城に直接携わり、その築城法を学んだのでは?とも言われるそうです。現在の掛川城は白木ハナエ様が総額の半分 (五億) を寄贈され市の方針により天守の再興になった。

革製 朱塗紺五枚胴七間五段下り (本写真は許可を得て掲載)

 山内家十八代当主、山内豊秋氏寄贈品

 山内家は、俵藤太の末裔、首藤俊通が鎌倉の山内庄を領し、山内を称した。俊通の子、経俊は平家に仕え、石橋山の戦いののち源頼朝に降り、子孫は小田原の早川、備後地批、丹波三宮の地頭となった。一豊の父久豊が丹波から尾張に移り、織田信安に仕え家老。父兄が戦死後、一豊は流浪したが、信長に仕えた。

参考 大名の暮らしと武士の備え

続く (掛川城 2)


掛川城1

掛川城2 (続く)

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