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 山内忠義公所用兜。頭形兜。本写真は許可を得て掲載

 この井戸から出たキリが、掛川城を包んだ、という逸話を持つ霧吹き井戸!


掛川城天守閣から見た掛川のながめ!

 ここで山内一豊の妻の話を・・・内助の功の理想像として語り継がれる見性院。名馬のヘソクリ話は、藩翰譜、鳩巣小説、常山紀談に内容のちょっとした差さえあるものの、だいたい似ている。

一豊は信長に仕えたころは非常に貧しかった。ある日、東国の馬売りが来て東国一と言われる馬を連れてきていた。高くてだれも手が出せない。家に帰り、お金が無く貧乏を嘆いていると、妻が黄金十両を鏡の箱から出して、夫に名馬を購入させた。案の定、信長の目に留まり、家中の誉れと感じ入られ、それから運が開けた」と言うものである。

参考 掛川城の全て

掛川城御殿!

掛川城御殿!

 現存する数少ない城郭御殿。儀式、公式対面等、藩の公的な式典の場+藩主の公邸+藩内の政務を取り扱う場所。掛川城の二の丸あり、江戸時代の後期の建物。現存する城郭御殿としては二条城なども現存するそうですが、貴重なものだそうです。

太田氏

 日本左衛門一件で手落ちがあって奥州棚倉に左遷された小笠原長恭に代わって館林から入城したのが太田資俊であった。太田氏は以来資愛、資順、資言、資始、資功、資美と続き明治維新を迎える。戦国時代に珍しい歌人武将、太田道灌の末裔であった (道灌-資康-資高-康高-康資-重正)。家康の関東入府 (1590) に従い、関東の名門として譜代の家臣衆に加わった。重正の妹、お梶の方が家康の側室になり関ヶ原に従軍、水戸徳川家初代頼房の生母となった。

太田氏の文治政治

 1635 年に下野山川城主となり島原の乱の処理に当たり三河西尾城へ。以後子孫は奏者番、寺社奉行、大坂城代、若年寄、などもつとめ、駿河田中、奥州棚倉、上州館林から掛川。掛川に移った資俊からは京都所司代や老中と勤めるようになる。

 太田氏の時代、掛川は全国どの藩もそうであったように、財政悪化状態であった。このような状況を克服するため、藩校徳造書院の設立 (藩士の教育)、「掛川誌稿」の編纂、飢饉対策のために「農喩」の配布 (飢饉対策のための応急処置法) などを行い、人情・人道に基盤をおいた文政治を行った。実際的には失敗もあったが、現在の地域文化の核となった。

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井伊家と掛川

名前

石高

在城

備考

井伊兵部少輔直好

3.5万石

13年

(直継系)

井伊伯耆守直武

3.5万石

22年

井伊兵部少輔直朝

3.5万石

11年

井伊兵部少輔直矩

3.5万石

0年

越後与板藩へ転封
 直朝は発狂死亡と言うことになっている。しかし正式には井伊本家の次男直矩を養子にしたい旨を以前より話していたため、また井伊家という譜代筆頭の家柄、また直朝の家系は、本来井伊家の直系である。井伊直政の長男直継は病弱+政治能力の不足のため次男直孝に家督を譲った。幕府は直継を五万石上州安中藩に移して、大名家にした。その系統である井伊家取りつぶす事は幕府でもできず、また遠慮もあったようだ。直矩は越後与板藩に転封となり、明治維新、現在まで続く。

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 旅の出発、帰省の玄関、東京駅!幻想的な丸の内側の建物!我が大学の化学科の建物もこんな感じだ!夜はライトアップされているが、理学部が負担しているとか・・・今度家の大学の特集もしよう!

参考 掛川城の全て、大名の暮らしと武士の備え、掛川城


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