井伊家の甲冑!

 井伊家の甲冑を集めてみました。実戦で使用されていたモノです。

鉄朱漆塗仏二枚胴具足、胴高38.2cm、24.5 kg、安土桃山時代 彦根城博物館蔵

 初代直政が関ケ原合戦の替え具足として着用したと伝える朱塗具足。頭形に鉄板を矧合わせた兜 (鉄漆塗五枚越中頭形、吹返し無し) に、大脇立が無い。装飾を取り除き、実践重視の直政の心意気が伺い知れる。鉄板を打ち出した仏胴で、面頬は実践品らしい猿面である。総重量は 24.5 kg であり、今まで言われてきた十六貫 (60 kg) とは大きく異なることが近年わかった (1)

 近年の調査考察によると、傷 (戦場傷) が全くないことなどから、関ヶ原の合戦の替え具足であると推定されている。関ヶ原で使用した具足は、家臣犬塚三十郎正長に下賜したとの文書 (犬塚系譜、貞亨異譜、「御召具足、御○併御下召拝領仕候・・・」) があり、替え具足である可能性が高い。

 左の写真は、彦根城博物館より画像をリンクして掲載しております。本画像の利用は、許可を得ていますので、無断転載はご遠慮下さい。

参考:(1) 中村達夫「剣と鎧と歴史と」、彦根城博物館

革威段替胴具足、胴高40.2cm、江戸時代 彦根城博物館蔵

 2 代直孝着用の朱塗具足と言われる。胴は碁石頭の板札と薫革の素懸威、腰から下は毛引きで威した段替りの二枚胴である。籠手は仕付袖をつけた毘沙門籠手。頬当は威嚇を目的に歯や髭をもうけ、兜は頭形で金色に輝く大天衝脇立である。井伊家の代表的な大脇立の甲冑であり、江戸期の藩主代替わり時の甲冑新調のモデルになったとも言われる。
 大坂の陣のおりは直孝は彦根井伊家の家督を継いでいない (幕府の独立した大名として分家しており、上州刈宿・白井一万石+彦根からの合力五千石、計一万五千石、大番頭が本来の身分)。直孝が直継の代理を努め、井伊家の総指揮を取った。

 左の写真は、彦根城博物館より画像をリンクして掲載しております。本画像の利用は、許可を得ていますので、無断転載はご遠慮下さい。

参考:中村達夫「井伊軍志」、彦根城博物館

 紺糸威五枚胴朱具足
 井伊赤備えの中のひとつであるが、彦根具足における鉄五枚胴は数が少なく珍しい部に属する。井伊家上士 (180 石)、山下又右衛門家の伝来である。先祖山下内記は本国甲州にて武田勝頼に仕え、甲州崩れの後家康から甲州に知行を貰い八王子に住む。内記病死後、初代又右衛門、幼少につき跡目相続不可となり甲州に引きこもる。1615 年、大坂夏の陣のおり井伊家に陣借りし、帰陣後 200 石。この甲冑は初代又右衛門が使用したと考えられ、江戸期初期のものである。山下又右衛門家は、幕末の動乱期には目付、町奉行、京都留守居役、大坂留守居役を代々勤め、藩主からの信頼の厚さが伺い知れる。

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長野民部業実 (ながのみんぶなりざね) 所用甲冑!

 長野信濃守業正の次男。業正病没後、長野氏は武田家に滅ぼされるが、家康が名家の者として小姓として召し出した。関東入府後ぐらいから井伊家に属し、幕末まで藩で第三位の高禄を知行した。

 ↑ 武田家遺臣で原衆出身の柏原総左衛門の星兜。直政が上州箕輪を知行したときに仕え、関ヶ原後は 800 石。信玄公以来の旗指物は井伊家でも特認されたモノであった。ある説では、長久手の戦で森長可を討ち取ったと言われる。奥に見えるのが森長可の兜。柏原家に伝来した!