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赤備え内の特殊な旗指物 先ほどの広瀬の旗指物は、当時井伊家だけではなく、「徳川家に井伊直政あり、また三科、広瀬など甲州武士あり」というようにかなり有名であったらしい。広瀬、三科は、武田家滅亡後は生涯井伊家を離れなかった。木俣、近藤、鈴木らの重臣が家康の旗本に戻りたいと言っても、決してそういうそぶりさえ見せなかった。広瀬は蒲生秀郷に小田原の役後(天正十九年)、使者曽根下野守昌世
(武田二十四将、当時は六千石で蒲生家)、斎伊豆をもって七千石で仕官を進められたにもかかわらず、 との理由により辞退している (武備軍要)。武田二十四将にも数えられる曽根下野より高い評価を受けているのには多少の驚きを感じ、私が興味を持った理由もそこにあると言って過言ではない。 甲州系武士の中でも、家康は自分の旗本の甲州武士より、直政に付属した甲州武士をかわいがった様子が多々うかがえる。本来なら陪臣として謁見さえ難しいにも関わらず、広瀬、三科の両名は過分の配慮を受けた。家康と広瀬の出会いは、物語としても非常に面白いものであり、こちらをご覧になっていただきたい。広瀬、三科が家康より受けた御意とはどのようなものであったのだろう?井伊家では最終的に二千石でしかなかった広瀬が、七千石もの高禄を持ってしてまで井伊家を離れなかった理由を考えてみたい。 旧武田家家臣、小幡勘兵衛は関ヶ原・大阪冬の陣のおり、井伊直孝の陣に属した。また兄が井伊家に仕えていたと言うこともあり、甲陽軍鑑にある井伊家についての記述はかなり信用がおけるものと思われる。井伊家の赤備えについて以下のように述べている。 信玄の家老で弓矢の誉れが高い山県の兄、飯富兵部の備えは赤備えと聞く。その後、浅利、このごろは上野の先衆、小幡が赤備えであると聞く。少しも他の色はなく、具足、指し物は言うに及ばす、鞍、鎧まで赤いという。そのようにせよと家康公は井伊兵部に仰せ付けた。ただし、山県三郎兵衛衆のなかに、広瀬美濃、三科肥前の猛者がいた。彼ら二人は、味方にも敵にも良く知られている指し物である。よって今までの指し物を使うことを許すとある。広瀬は白幌はり、三科は金のわぬけであった。 長坂十左衛門は土屋衆とも言われるが、山県衆かと思われる。元亀二年 (1571) 三州吉田の城攻めで功を上げる。金の制札の指物で名高い豪の者。慶長十二年の井伊家文限帳では三百七十石の知行をとどめるのみで他に確とした事跡は見あたらない。このような時代、武辺者によくある独身主義で、死後子もなく名跡を立てる縁者もいなかったようである。その金の指物には信玄公以来の「其徐如林、不動如山」という信玄の好んだ孫子の語句に「天下無双長坂十左衛門」と記してあったという。 柏原総左衛門は、原衆出身。天正十八年に上州箕輪で召し抱えられた。八百石を領し (1602 年)、上下白、中黒の小旗、中黒の部分に仮名で「かしはら」と二行に白抜きにした軍旗は、信玄公以来の特認であり、井伊家でも光っていたそうである。柏原は長久手の戦で森武蔵守長可を討ち取ったとも言われている。 |
| 広瀬郷左衛門将房・三科伝右衛門形幸 武田家時代は両名とも山県衆の采配御免の三人の内の二人として、すでに有名であった (もう一人は小菅五郎兵衛)。しかし、公事方訴訟事件など、甲陽軍艦に采配を許されるときに面白い逸話も載っているので、ぜひ参考にしていただけたら幸いである。三科は金の輪抜の旗指物で名を知られた。しかし、嫡子が早世し、養子なども立てなかったため逸話など正確な業績を語る文書が少ない。井伊家の「藩士系図」にも「以後、養子も願不申・・・」とあり、名高い家名なのになぜ養子を立てなかったのか不思議そうに記している。わたしが調べた限りでも、甲州系武士が途中で断絶している例はかなりある。いずれも世継ぎ無くというかたちである (長坂十左衛門、孕石源右衛門泰時、三科伝右衛門形幸、河手主水良則、早川弥惣左衛門幸豊ら)。かれら五人はかなりの有名人である。それぞれについての詳細な紹介は後日述べたいと思う。 今回は広瀬美濃守将房に限定して話を進めたい。彼の話だけでも一つの HP ができてしまうくらいエピソードがある。 |
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