秀吉からも信頼される
 秀吉が立てた聚楽第は「黄金の塊」と形容して差し支えない。とにかく外側にはたっぷり金を利用していたことは事実であろう。披露をかねて当時の帝、後陽成天皇の行幸をあおいだ。天正十六年 (1588) の四月であった。大名達も陪臣するように命ぜられた (天皇からみれば秀吉は家臣であるが、家康は陪臣になってしまう)。このとき直政も陪席することを命じられた。本行為は、秀吉が家康を一段高いとこに置いたのか、それとも直政を一段高いところにおいたのか。さてまた、秀吉得意の人たらしの術なのか?これ以来直政は侍従に任官される。

筆頭家老 ( 石川数正) の出奔

 徳川家の筆頭家老である石川数正が秀吉の調略により出奔した。小牧長久手が終り、秀吉が家康を何とかして臣従させようと努力していたときである。このとき数正は、秀吉との折衝をしており、秀吉臣従派であった。徳川家では酒井忠次が政務を、石川数正が軍事を執り行うことになっていた。秀吉の人たらしの術にかかった数正 (家康の家臣達もかかってしまった) は徳川家に居ることが出来なくなり秀吉の元に走ったと考えられる。徳川の軍法が秀吉側に筒抜けになることを恐れ、甲州流を取り入れたのはこのときである。

 直政は、秀吉からの人質である秀吉の母と妹の世話担当であった。家康臣従後、人質の意味はなくなったので、直政の護衛のもと、大政所と朝日姫は京都に戻った。京都、大阪での秀吉の歓迎ぶりはすごく、秀吉自らが直政を遇した。秀吉の茶が振る舞われることになったとき、相伴として石川数正が控えていた。直政は数正の顔を見ようともしない。秀吉らしいからかい方である。両者の反応をみて楽しんでいるのだ。直政は、
 「
憶病者のお隣は不肖直政、お断り申し上げます
と言ったという。