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関東移封にさいし、家康の四男忠吉が忍十万石を領した。それを機会に妻を持たせることに有り、直政の娘が夫人になった
(1592)。井伊家と徳川家は親戚関係になったのだ。 「徳川家の戦なのになぜ他家のものに先陣を許せようか」 と娘婿松平忠吉とともに五十騎ばかりを従え最前列に出た。まず、福島隊で元北条家遺臣、大道寺直次に出会った。直次は分別もある戦人、直政らに会うと 「本日の先陣は福島左衛門太夫が承って候、これより先は何人たりとて通るべからず!」 と意気込んだ。すると直政は、 「ここにおわすは、家康公御子息にて松平下野公にあらせられる。下野公は本日の戦が初陣たり。後学のため物見に行く!」 というと、家康の息子というのが聞いたのか、大道寺は道を開けた。 またしばらく行くと福島家の先鋒可児才蔵にであった。かれも、 「本日の先陣は福島左衛門太夫が承って候、抜け駆けはおやめ下され!」 と掛け合った。可児は戦の前で気が立っている。たとえ身分的には直政が上でも戦場となれば関係ない。直政は、 「忠吉公初陣につき、後学のため物見に行かんとするのみ」 それでも可児は直政ら一行を通そうとはしない。明らかに抜け駆けというのを見て取ったのである。直政は、 「うろたえるでない。物見じゃ」 と取り合わず、宇喜多勢へ飛び込んでいった。これをみた福島隊の攻撃命令がでて関ヶ原の合戦は開始されたのであった。直政は退却する島津隊を追い、島津豊久を打ち取る功をあげた。しかし、島津の伏兵の狙撃により負傷、それが原因で二年後死亡した。
直政は非常に厳しい男らしく、家臣と談話するなどということはほとんど無かったらしい。退散したがる家臣が後を絶えなかったとの説もある (怖くて言い出せなかったらしいが)。そして、優れた家臣は本多忠勝に靡いてしまう傾向があったとも伝わっている。筆頭家老の木俣守勝でさえ、徳川の旗本に戻してくれと言った。当時は殉死が禁じられていなかったが、直政に従うものはいなかった。直政は家臣を育てるのではなく、家臣を使うことに秀でていたように見える。 |
