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甲州平定後、武田の旧臣の配置で榊原小平太康政が大いに異を唱えたという。
「元服もやっと済ませたような小僧に武田の旧臣を束ねることが出来るであろうか?筋から言えばこの小平太にお任せあるべきであろう。差し違えて恨みを晴らし申す」
と酒井左衛門尉忠次に訴えた。忠次は、
「投降人は投降人が世話するべし」
と榊原康政を説得し、納得させたといわれる。一足先に投降した直政ならうまく武田の旧臣の心をつかみ取ることが出来ようとの家康の配慮であったと考えられる。
直政に付いた武田の旧臣は大きく分けると、山県組、一条組、土屋組、原組であった。山県組は飯富兵部の発想を受け継いだ有名な赤備えであった。赤色に統一した具足を用い、戦場で活躍した。強いから赤色が目立ち、赤色だから強そうに見える。直政は自分の隊全部を赤で統一し、徳川軍団最強の部隊を作り上げようとした
(武田時代は「赤色の倣慢」などと必ずしも評判は良くなかったとも言われる)。
その赤備えが実際に活躍したのは、小牧長久手の合戦である。秀吉方、池田恒興献策の「家康を小牧に引きつけておき、本国三河に攻め込み背後をおびやかす」作戦は、味方を有利にするはずが、味方を不利な立場に代えてしまう作戦であった。恒興に借りがある秀吉は愚作と思いつつも同調せざるを得ず、甥秀秋を総大将として作戦を実行に移した。秀秋の別動隊の動きは家康に察知され、長久手で家康軍に奇襲され大損害を被った。その時の先鋒が直政であった。井伊の赤備えは恐ろしい、「井伊の赤備え」、「井伊の赤鬼」と呼ばれるようになるのはこのときからである (甲陽軍鑑)。
小牧長久手の戦の前、家康と織田信雄による軍議の末、小牧山に陣取ることが決定した。この山をとることが戦を有利に勧めるのに必要であると判断したからである。榊原、にこの旨下知があった。しかしこれに遅れるなとばかり、家康本隊、信雄本隊、酒井隊などが後を追った。
「道にてのろし一筋見えければ、いよいよ急ぎ我先にと行列少し乱れしが、井伊万千代直政ばかり赤備え三千ばかりにて押太鼓を打ち、いかにもしずしずと行列正しく押し来る
(東遷基業)」
とある。直政の統率力、兵士の実力の高さをうかがい知れる文献である。直政当時二十三歳であった。
直政は「先登の井伊」と言われるくらい常に先駆けして敵と組打ちすることが多く、何千もの兵士を預かる隊長としてもその癖が抜けなかった。長久手の合戦で先回りした徳川軍の先鋒として森長可隊に突入したとき、三科形幸が、
「まっすぐ突っかかろうとしてはいけませぬ。地の利をはかり迂回して敵の背後を突くべきです」と進言したが、直政は三科の忠告をに耳を傾けるどころか、
「じゃまをするな」と叫び斬りかかろうとする勢いであったという。
その後、広瀬美濃が駆けつけて「無理はなさるな、御自重あれ!」と注意したが、それも聞かなかった。
三度目は井伊谷三人衆の近藤康用が直政の後ろからわしずかみにして「大将が備えを捨てて単騎駈けされては、下地は誰がするのでござる」といさめたが、
「このたびは荒くあてがえとの、殿からの仰せじゃ。じゃまだていたすな。我に遅れ足るものは男ではないぞ」
と叱りつけ、家康軍の士気を高めたという。大将自らが先頭を切るのだから、部下はこれに従うしかない。このような直政の先頭で突進する癖は関ヶ原でも直らなかった。しかしこれは直政にも子細があってのことであり、それが癖になってしまったのだ。確かに性急な男ではあったが、本多忠勝、榊原康政より遅く仕官したにもかかわらず、家康にかわいがられ、さしたる武功も無いのに徳川家の筆頭人となり、日本最高の兵である甲州軍団の采配を任されたのであるから、なんとしても手柄が欲しかったのである。若輩者の直政が他の家康家臣から妬まれないようにするには、己の実績・武功を挙げるしかないのである。このことを嫌と言うほど分かっていたための行動であると思われる。
長久手の合戦では秀吉側の森長可を打ち取る功をあげた。森長可を打ち取ったのは井伊家家臣
(旧武田家遺臣) の柏原與兵衛であった。森長可が長久手で討ち死にの際に着用していた兜は、柏原與兵衛家に伝来して現存しています。また、胴の部分は赤穂大石神社宝物館に展示してあるものです。
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