井伊家家臣団

木俣守勝

(きまたもりかつ 清三郎、土佐守)  木俣装備品

 三河譜代の家柄であったが、家族と仲違いをして、一時明智光秀に仕える。光秀に仕えても軍功あり、強制的に家康から帰参を命じられた。本能寺の変後の甲州平定において、守勝は北条との交渉の副使になった。このときの正使は直政である。守勝は年下の直政をよく補佐し、北条家との交渉をうまく進めた。この後直政付きになり、筆頭家老となる。直政が家康に従い大坂、伏見に滞在している間、守勝が高崎の仕置きを司った。

 関ヶ原の時受けた鉄砲傷に細菌が入り、敗血症となった直政は家老の守勝を枕頭に呼び後事について遺言した。
井伊家は徳川殿のお取り立てによって今日があることを忘れてはならぬ。徳川家へのご奉公第一につとめること、忠節一筋を心掛けよ。これは代々家を継ぐものに申し送って、違反の内容にさせよ。また井伊家では将軍家やその一門など、権勢高い家とは婚姻を結ばないよう
 直政の後は十三歳の万千代 (直継) が後を継いだが、その御礼に木俣が家康を訪ねたところ、家康は木俣をそば近くに召して、
佐和山城は東西南北の各地にわたり、諸国の押さえ足るべき要地であるから、ことさら重要視している。汝はいよいよ幼君を守護せよ。天下の大事はここにあるぞ
 と告げた。守勝はこれほどまでに家康が佐和山を重要視しているのかと、その守りを我が井伊家に託されているのかと、その責任の重大さに身を震わせて御前を退出したという。

西郷正友

菅谷忠久

(井伊谷三人衆)

椋原政直

近藤秀用

(井伊谷三人衆)

鈴木重時

(井伊谷三人衆)

岡本半介宣就
孕石備前守泰時

早川幸豊 

三(左衛門)

 信玄、勝頼に仕えた。勘介流(甲州流)の築城法を山県昌景より伝授された。天正十年(1582)家康に仕えて、井伊直政付きになった。その後、甲州流によって彦根城を築いた。

広瀬美濃守景房

(生没不詳)

 甲斐石和広瀬の郷士。武田家に使え、板垣衆を経て山県衆へ。信濃佐久尾台城攻め、北条氏との駿河八幡平の合戦、徳川との吉田城の攻防に功が合った。長篠の合戦では足軽大将衆。武田家滅亡後は直政に仕える。

 元亀二年(1571)、信玄が家康を吉田城に追いつめたとき、郷左衛門は城門まで追って徳川方の剛の者を討ち取った。楼門の上から家康に名を問われて、「山県同心、広瀬郷左衛門でござる」と答えた。敵将に名を問われるとはかなりの名誉のことである。家康もそれを覚えていて、甲州入りをすると、直ちに郷左衛門を探し出して仕えさせた。「久しぶりだ、郷左衛門、武田への忠誠は尽くしすぎるほど尽くしたであろう。今度はわしに仕えてくれぬか」と誘った。このころは自分の力量を買ってくれる君主に仕えるのが当然とされていた時代であったのでためらうことなく家康に仕えることになった。井伊直政付きになり早川幸豊ら甲州武士とともに赤備えを作り、彦根城築城にも功があった。

三科形幸

(みしななりひで、肥前守)

 武田家の山県衆としてその名を知られる。広瀬美濃とともに家康にもその名を知られ、広瀬美濃、三科肥前の旗指物は敵にも知れ渡っているものであると評価される。武田家滅亡後、徳川家に仕え井伊直政付きになる。直政の一騎駆けをよくいさめ、甲州武士数人と換言書を提出したりしている。
 石川数正が徳川家を出奔し、徳川家の戦略が筒抜けになることを恐れた家康は、直政に広瀬や三科より山県昌景の兵法戦術を学ばせたという。

 三科の甲冑

長野主善  六朗左衛門、常陸介と称す。姉川の合戦で朝倉方の勇士、真柄十郎左衛門直澄を討ち取り、武名をあげた。本性は長野。上野箕輪の長野業盛の息子といわれる。家康の関東移封に際して直政付きになり高崎で国家老を勤めた。幕末、井伊直弼の懐刀として働いた長野主膳は彼の子孫と思われる。