| 赤備えの井伊直政の武具、馬具はどのようなものであったのか、簡単に調べてみました。家康公からの拝領品等、簡単に逸話についても記しておきます。現存するものが数多くありますが、馬はすでにいません (当たり前ですが・・・)。 | |||
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井伊年譜によると、1576 年の遠州芝原合戦 (vs 武田勝頼) では両者戦らしきことをせずに帰陣したとある。そのころの話で、直政は家康から栗毛の三寸四分の名馬を拝領した。この馬は家康が常に戦場で乗っていた馬である。この話を聞いた本多作左衛門重次 (越前丸岡城にある「一筆啓上・・・」で有名) が怒り、「なぜ万千代のような若輩者に賜るのか!」と文句を言った。しかし、直政は新参であり、このときは我慢した。しかし数年後、立場が変わった直政は「いつかは殿から拝領した馬について、それがしは小僧、殿はめくらと言いおったが、今のわしがあるのは、あのときの殿の駿馬のおかげである。目がなかったのはそちの様だな!」と言ったという。直政がいかに家康にかわいがられていたかが良く分かる逸話である。 |
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本能寺の変後、川尻秀隆が甲州の一揆により討ち取られるや、徳川家康はすかさず軍を動かした。本来、信長の弔い合戦の主役は同盟者の家康が旗印になる可能性を秘めていたが、家康一行はたまたま堺見物にいたため機会を逃がしただけではなく窮地に陥った。 茶屋四郎次郎、長谷川秀一、甲賀者等の尽力により死地を逃れた (伊賀越え)。名将言行録のくだりに、直政の話が出ている。「家康がわずかな供と共に伊賀越えをしたとき、食べ物に困った。とある社に赤飯が備えてあったのを見付け、主従はこれを食した。しかし直政だけはこの赤飯を食べなかった。家康が遠慮は時と場合による、早く食え!と叱ったが、直政は光秀の追っ手がすぐそこまで来ているかも知れない。拙者はこの場にて踏みとどまりますので、殿はお逃げ下さい。切られた後、供物まで手に出したと合っては死後の名折れです・・・」。 直政は伊賀越え後、労を賞され孔雀の尾で縫った陣羽織を賜った (与板藩井伊家に伝わり、現在は新潟県与板の史料館にある)。 |
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甲州を平定した家康は、亡き信玄が育てた精鋭部隊である甲州武士を大量に召し抱えた。その時の奉行として働いた一人に直政がいた。 家康は最初、酒井忠次に甲州武士を預けようとしたが、若い直政を引き立てようと、ほぼ全員を直政の与力とした。これを聞いた榊原康政は、忠次の元に行き「甲州人を半分ずつ分けて、われと直政に付けたるべきに、口惜しきかな。直政に会ったら、差し違えてくれよう!」と意気込んだところ、忠次は「殿は我に預けんとしたところを、我が進めて直政に付けたるものなり。これを聞かずして率爾なる挙動をあらば、殿へ申すまでもなく汝が一族を皆殺しにしてくれよう!」と周囲からのねたみを買ったそうである。 これが生涯直政の先陣癖が付いたゆえんであると考えられている。 |
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小牧長久手の戦の後、秀吉は家康を懐柔する手段に出た。1586 年、秀吉は妹の朝日姫を家康に嫁がせ大政所を送り、八月には上洛させることに成功した。直政は岡崎にて大政所の警備に当たったが、その時の岡崎衆は大政所に対し非常に冷たかった。しかし直政の態度は非常に大政所を安心させるものであったらしく、京都への帰還には直政に同行して欲しいと家康に懇願した。また、秀吉から豊臣の姓と腰の刀、従五位下侍従を与えられた。このとき直政より先輩に当たる酒井、本多、榊原らはまだ官位を得たおらず、対外的には直政が家康の筆頭家臣と認められた瞬間であった。 |
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秀吉の懐柔策と思われる。他の家臣、本多忠勝、榊原康政、酒井忠次らが従五位下に叙任されたのに対し、直政は四ランク上の官位を得ていた。本多等が従五位下に任官したときの直政の官位は従四位下侍従であった。 |
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中古治乱記によると、「赤旗朱具足一党の軍兵を進ませ、直政は唐の甲総角付まで掛かりけるを猪首に着なし・・・」と記している。南蛮由来の白熊の毛を背中まで伸ばしたきらびやかな出で立ちであったものと思われる。直政は本多忠勝とは異なり、非常に重い甲冑を着ていたそうである。 |
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中村達夫氏によると、黒半月と先の栗毛の名馬は同一であろうととのことである。鼻か首あたりに半月状の白い毛が生えていたのではないかと述べている。小牧長久手の戦いの時の乗り馬。 箕輪時代に甲州武士が制定した「井伊軍法」によると、信玄の古歌を引用して「上肝の中肝こそは大将の 乗るべき馬と知れやもののふ」と言った。馬には上中下の三段階があり、その中でも上の中程度の馬に乗るのが良いと言っている。名馬中の名馬は災難に会うという迷信があった。(三国志の関羽の馬) |
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関ヶ原の合戦の折り直政が使用していた槍。このとき、直政は本多忠勝と喧嘩になった。直政は徳川譜代の将が関ヶ原の先陣を切るべきであるという、政治的な考えをしていたのに対し、忠勝にはそれが分からなかった。忠勝には直政がただ単に抜け駆けをしようとしている様に見え、蜻蛉切りを握り直し、直政を遮ったのである。そこに現れた関一政が取りなし、事なきを得た。 |
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直政の関ヶ原での乗料は、二毛の毛傷がある、絞と言う名の馬であった。 |
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直政は本多忠勝とのいざこざがあったときはいつもの朱具足ではなく、斥候用の黒具足を着用していた。 |
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関ヶ原の合戦が終わり、各将から戦勝祝賀を受けていた。この場に、直政と松平忠吉がやってきた。家康は直政、忠吉両名が負傷しているのを見た。家康「下野は手負いたるや」、忠吉「薄手にて候」、直政「下野様は優れたるお働き、さすが逸物の鷹の子は逸物でござりまする」、家康「そは鷹匠のししあてのよきゆへなり」と直政を賞し、家康自らが調合した膏薬を家康自らの手にて塗ったという。 |
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関ヶ原の合戦後、京都は家康の奉行、伊那図書頭昭綱が治安維持に勤めていた。福島正則は戦勝報告のために北政所に手紙を書き、家臣佐久間加左衛門を使者に立てた。しかし、家康の命令で関所を設けていた伊那図書の足軽が佐久間を通さず、帰してしまった。佐久間は無念のため切腹し、正則は怒って家康に事態を報告、伊那の首を求めた。家康は正則の心変わりを気遣って、しぶしぶ伊那に切腹を命ずるが、伊那は受け付けなかった。しかし、直政と同行していた安藤帯刀直次が人たちの元、伊那の首を落とし、結局正則の怒りは収まり事なきを得た。正則が直政にねぎらいの意味で、有名な渡辺綱の古兜を送ったが、直政は受け取ろうとしなかった。しかし、結局直政は受け取ることになり、そのまま家臣の岡本半介にあげてしまったのである。渡辺綱は、源義家四天王の一人で、京都一条戻橋での鬼退治でも有名である。 |
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関ヶ原での徳川譜代家臣への恩賞は、非常に少なかった。直政は自分の功をかなり評価していたらしく、この刀を所望した。この一国政宗は、源頼朝が伊豆一国の歳入で政宗に作らせた刀である。この刀については井伊家には伝来はなく、結局使者に説得されて、この刀を拝領することは無かったようである。 |
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