もっと児島〜児島の歴史〜

■児島の歴史〜学生服のまち児島〜

児島は今は倉敷市の一地域だが、1967(昭和42)年までは「児島市」だった。倉敷市はこの年、玉島、児島両市を呑みこんで市域を大きく広げたのだ。
少し歴史を遡ると、現在児島地区といわれているあたりはかつてはその名のとおり島だったらしいが、岡山や倉敷の周辺に流れ込む吉井川、旭川、高梁川という三大河川の運ぶ土砂で陸続きになった。これが児島半島で、この半島が抱える海が中学の社会でも習った「児島湾」。この湾は遠浅で埋め立てやすかった。それで江戸時代から備前岡山藩が干拓を奨励し、干拓地は沖へどんどん進出して農地は増えていった。
しかし、海を埋め立てただけに塩分を抜くのは難しく、そうなるといきなり米を栽培することに無理があったらしい。それで、塩に強い作物、として主に綿やソラマメが植えられた。

これが児島で機織業が栄える基盤となった地理的背景だ。またこの埋立地の新田の作物に北海道、当時の松前藩領から送られてきた鰊(ニシン)粕が肥料として投入された。この鰊ははるばる北前船で運ばれ、下津井で荷揚げされたものだ。当時は鰊はいくらでも獲れたので人間が食べるよりも、畑の肥料として多く使われていたらしい。また北前船の帰り荷には、児島名産の塩、そして綿入れが歓迎されたそうだ。
児島の木綿が全国に知れわたるきっかけとなったのが、由加山大権現の土産用の真田紐(組ひも)だという。それが発展し明治維新以降は帯地や足袋、袴等の産地として大きく伸びた。特に足袋は大正中期には年間1000万足と、岡山県が全国一の生産県となったそうだ。

しかし、まもなく大きなダメージを受ける。1932(昭和7)年の東京日本橋・白木屋百貨店(現東急百貨店)の火災であった。和服の女性たちがここで多く逃げ遅れたことで、女性の洋装化は一気に進んだという(ホントかどうかは定かではないが・・・)。そうなると足袋の需要は激減し児島の機織業は大きな痛手を被る。
児島は生き残り策を考えた。考えた末、これしかないと打ち出したのが学生服であった。足袋の製造で培った木綿裁断と縫製技術、これを学生服に応用したのだ。時はまさに詰襟の時代、詰襟は当たり前の服装だった。児島の学生服産業は着実に売上を伸ばし、戦後の1963(昭和38)年にはなんと1006万着という新記録を達成した。最盛期には全国シェア9割を誇ったという。

しかし、再び時代は変わる。制服を廃止する学校、ブレザーに替える学校も増え、1970(昭和45)年には生産量は半分以下に落ち込んだという。素材も木綿からナイロンやテトロンという合成繊維に変わっていった。
児島はまた時代の厳しい波に揉まれることになったが、その後はジーンズに進出する業者も出るなど、したたかに時代を生き抜いている。現在でも学生服の全国シェア70%は圧倒的な数字だ。
というわけで、児島の産業は土産の組ひもから足袋を経て学生服、そしてジーンズへと発展してきたのである。

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