■ 平安宮内裏復元図
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平安宮内裏復元図

平安宮内裏復元図

内裏(だいり)

 大内裏の中央やや西よりに、天皇の居所である内裏がある。内裏は二重の郭によって囲まれており、外郭の正門を建礼門、内郭の正門を承明門という。築地塀で囲まれた外郭は南北100丈(約300メートル)×東西73丈(約220メートル)、複廊で囲まれた内郭は南北72丈(約215メートル)×東西58丈(約173メートル)の規模を持つ。内郭の中にはぎっしりと建物が並び、大内裏で最も稠密な空間を造り上げている。

 内裏の正殿を紫宸殿と呼ぶ。当初は大極殿における国家的儀式を補完するための儀礼がおこなわれる場所であったが、時を経るごとに機能が複合化し、大極殿や豊楽院でおこなわれた儀式を吸収していく。これは、朝廷の政治の中心が従来の太政官から天皇の内廷に移っていくことをあらわしている。紫宸殿の前面には広い南庭があり、そこには「左近の桜」「右近の橘」の二本の樹木が植えられている。もともとは梅と橘であったが、承和年間に梅が枯れたために桜に植え替えられたという。

 紫宸殿が内裏における公的な場であったのに対して、清凉殿は天皇の私的な住居である。桓武天皇時代の天皇の御座所は紫宸殿の北側の仁寿殿であったが、平安時代中期には仁寿殿もまたさまざまな儀式に使用されるようになったため、天皇の普段の生活は清凉殿でおこなわれるようになったのである。

 現在の京都御所は南北朝時代に里内裏となった土御門東洞院内裏が発展したもので、平安宮内裏とはまったく位置が異なっており、またその建物も江戸時代末期の再建である。ただ、京都御所の再建にあたっては江戸時代の公家であった固禅入道裏松光世(『大内裏図考証』の著者)の研究成果を全面的に取り入れて平安宮内裏の古制を可能な限り踏襲している。従って、私たちは京都御所を見ることによって平安宮内裏の面影をしのぶことができる。

 平安宮内裏の跡地は、現在は西陣の市街地に完全に飲み込まれてしまっており、発掘調査をおこなうことは容易ではない。また、この場所には16世紀に豊臣秀吉の京都政庁である聚楽第が建造されており、それによって内裏の遺構はかなり破壊されてしまっていると推定される。現在までの発掘調査では、承明門北側雨落溝、内郭回廊基壇、蔵人所町屋雨落溝、登華殿東側雨落溝などの遺構が部分的に発見されているだけなのである。

※山田邦和「都の中枢・大内裏」『歴史群像シリーズ安倍晴明』(新人物往来社)より

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