■織田信長を歩く1
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織田信長像
織田信長像(大徳寺総見院)

 普段は非公開の大徳寺総見院をはじめ、織田信長ゆかりの史跡めぐりをしました。

本能寺跡

本能寺跡石碑

  天正10年(1582)、明智光秀の襲撃により、織田信長が非業の最期を遂げたのが本能寺です。本能寺小学校(現在廃校)の入り口には由来を記した石碑が建ち、小学校の東北隅にも石碑が建っています(写真左)。石碑は位置的にいうと、本能寺があった場所から少しづれています。正確には、六角小路(六角通)より南、四条坊門小路(蛸薬師通)より北、櫛司小路(神泉苑通)より東、大宮大路(大宮通)より西に囲まれる地域にありました。
 本能寺は、本能寺の変の時に全焼し、すぐに再建にかかるのですが、豊臣秀吉の命令によって現在地(中京区寺町通御池下る)に移転させられました。
 現在の本能寺には信長の供養塔が建っています。また宝物館には、信長ゆかりの品々が所蔵されています。「信長を歩く2」でご紹介します。

【アクセス】市バス堀川蛸薬師下車 徒歩すぐ

南蛮寺跡

南蛮寺跡石碑と南蛮寺の鐘

 本能寺跡の近く(蛸薬師通室町西入る)には、南蛮寺跡の石碑が建っています。
 天正4年(1576)、信長の保護により3階建てのキリスト教の天主堂が建てられました。しかし1587年に秀吉の禁教によって破却されてしまいます。
 この場所からは、礎石やミサの様子を線刻した硯が発掘調査によって発見されています。礎石は同志社大学今出川校舎の図書館の前に置かれています。硯は、同志社大学京田辺校舎歴史資料館で見ることができます。
 南蛮寺跡にあったという鐘は、妙心寺の塔頭春光院(京都市右京区)に保存されています。

旧二条城跡

旧二条城跡石碑と石垣

 信長が15代将軍足利義昭のために造営した城です。二条御所、二条新第とも呼ばれます。その範囲はまだはっきりとは確認されていません。室町通下立売の南西角に旧二条城跡の石碑が建っています。「旧」の文字は、現在の二条城と区別するためにつけられています。京都御苑・蛤御門を入って右に曲がった所には、地下鉄烏丸線建設工事の際の発掘調査で出土した石垣が移築保存されています。ルイス・フロイスの記録に、信長が石仏をたたき毀して石垣に使ったということが出てきますが、その記載を裏付けるように、石垣の中にはたたき毀された石仏が使われていました。石仏は現在西京区の竹林公園に保存されています。
 本能寺の変において、信長の長男信忠が、明智軍に囲まれてこの御所で自刃したとありますが、これは誤りです。信忠が自刃したのは、誠仁親王の二条御所(現在の烏丸御池の交差点北西にあたります)です。ガイドブックや書籍、研究者の中でも、混同されているのでご注意ください。

【アクセス】地下鉄丸太町駅下車 徒歩すぐ

織田信長を歩く2 ▼織田信忠の見た風景




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