■桓武天皇陵

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第50代 桓武天皇

桓武天皇陵

名前

山部

父/母

光仁天皇 / 高野新笠

生誕から崩御年

737〜806

在位期間

781〜806

陵墓(所在地)

柏原陵(伏見区桃山町)




【桓武天皇陵の造営】

 延暦25年(806)3月17日、平安京の創設者である桓武天皇は、内裏清凉殿において70歳の生涯を閉じた。天皇の山陵は当初、平安京の西北郊の山城国葛野郡宇太野(現・京都市右京区宇多野の付近)に定められた。ところが、そのことは宇太野付近の在地勢力の反発をひきおこしたらしく、京の周辺の山で不審火があいつぐことになる。占いの結果、これは山陵が賀茂神社に近いための祟りであることになり、天皇の陵は山城国紀伊郡(現・京都市伏見区)柏原山陵(柏原陵)に改められる。
 『延喜式』諸陵寮は桓武天皇柏原陵を近陵に列し、「兆域東八町、西三町、南五町、北六町、丑寅角に二峯一谷を加ふ。守戸五烟」としている。すなわち、同陵の兆域は1辺11町(約1・2・)の範囲に及ぶ巨大なものであり、陵の本体はその中央やや西寄りの場所に位置していたことになる。この陵は平安時代から鎌倉時代前期にかけて歴代の朝廷の尊崇を集め、定期的に荷前使が派遣された他、国家の重大事に際しては必ず告陵使がつかわされるならわしとなっていた。その位置は、「伏見山に在り。東辺に従いて二町許り入る。稲荷南野に在り」(『拾芥抄』)と記録されている。また、応天門の変の主役として著名な大納言伴善男が建立した報恩寺が桓武天皇陵の兆域内にあったとされている(『三代実録』貞観9年12月18日条)ことも見逃せない。

【桓武天皇陵の候補地】

 ところが、南北朝から室町時代にいたる動乱の中で朝廷の陵墓祭祀が衰退すると、桓武天皇陵もまたその所在地が忘れ去られるにいたった。江戸時代後期の陵墓探索事業では、元禄年間の修陵でひとまず伏見区深草鞍ヶ谷町浄蓮華院境内の谷口古墳(6世紀後半)に決定したものの、なお伏見区深草鞍ヶ谷町山伏塚古墳(6世紀後半)や同区桃山町遠山黄金塚2号墳(5世紀)などの古墳を推す説、伏見区深草大亀谷古御香町の古御香宮社(現・大亀谷陵墓参考地)をそれとする説、さらに伏見城の建設で破壊されたとする説など、さまざまの異論をみたのである。幕末にいたり、谷森善臣(平種松)が紀伊郡堀内村字三人屋敷(現・伏見区桃山町永井久太郎)の地にあったわずかな高まりを桓武天皇陵と考定、これが明治政府に引き継がれて現在にいたることになる。
 なお、谷口古墳をはじめとする古墳時代の古墳を桓武天皇陵に想定することは現在の目から見るととうてい無理であるが、大亀谷陵墓参考地については史料上の根拠がないわけではない。文安2年(1445)に原図が作成されたとされる「光厳院古図」(伏見山図)に柏原陵が記載されており、それが現在の大亀谷陵墓参考地の地を指すと見られるからである。なお、同参考地の付近からはかつて、花崗岩の板材を組み合わせた「石棺」または「石槨」と呼ばれるもの(長さ2・57m、幅1・28m、高さ1・10m)が出土している(現在は隣接する仏国寺境内に移転、台石のみは古御香宮社の社殿前に残る)。これは他に類例を見ない奇妙な構造物であり、今後の検討がまたれる。

【陵制史から見た桓武陵】

 限られた文献史料から桓武天皇陵の位置を推定するのは、すでに江戸時代にすべての試みがおこなわれているといってよい。また、考古学的にも桓武天皇陵の存在を直接立証する証拠は得られていない。そうすると残る方法は、桓武天皇陵が陵制史の中でどのような段階に位置づけられるのかを検討することだと思う。
 当然のことながら、古墳時代の天皇(大王)陵は大古墳であることを原則とする。この形態の天皇陵は、慶雲4年(707)年に崩じた文武天皇の山陵(奈良県高市郡明日香村中尾山古墳と推定)まで連綿として続く。ところが、奈良時代にはいった元明天皇の段階で、天皇陵の形態は大きな変化をとげる。中国・唐の皇帝陵の思想的影響のもと、墳丘を造らずに自然の丘を山陵とする方式があらわれたのである。続く元正・聖武両天皇陵についてはいささか実態が判然としないが、おそらくこの陵制を引き継いだものと考えてよいだろう。称徳天皇陵だけは例外で、同天皇はみずからが創建した西大寺の隣接地(広義の西大寺境内)に大規模な墳丘を造って葬られたようである。すなわち、奈良時代の天皇陵は基本的には山丘形のものが主流であり、例外的に古墳形式のものも存在した、と考えることができる。
 こうした流れが変わるのは、平安時代にはいり、桓武天皇の皇子である嵯峨・淳和両天皇の段階をまたねばならない。両天皇はいずれも遺詔で山陵を造ることを拒否し、淳和天皇に至っては遺骨を砕いて山からばらまくという思い切った薄葬を命じたのである。
 桓武天皇陵に論を戻すことにしよう。同天皇は嵯峨・淳和両天皇のような徹底した薄葬によって葬られたわけではないから、その山陵はある程度の規模を持ったものであったはずである。すなわち、陵制史の上からは同天皇陵は、奈良時代に通例であった山丘形のものであった可能性と、例外的に古墳形式のものであった可能性とが考えられることになる。ここで注目されるのは、文永11年(1271)に柏原山陵が盗掘された際、事後処理におもむいた諸陵寮の役人が「件の山陵、十許丈を登り、壇の廻り八十余丈」と報告していることである(『仁部記』文永11年2月21日条)。つまり、桓武天皇陵の本体は、周囲から10丈(約30m)以上高い丘陵上にあり、その周囲が80丈(約240m、つまり径約80m)以上もあったということになる。そうすると、古墳時代の巨大古墳であるならばいざしらず、径80mという規模はとうてい古墳形式のものと考えることはできないから、同天皇陵は山丘形のものであった可能性が高いことになろう。

【桓武天皇陵の想定位置】

 そこで改めて桓武天皇陵の候補地を検討してみると、宮内庁治定の現陵は丘陵裾の緩斜面に位置しており、いかに伏見城下町建設で地形に改変が加えられているとはいえ、山丘形の陵を想定することはできにくい。また、大亀谷御陵墓参考地は一辺百mほどの半島形の丘陵の上に位置しているけれども、下の街道からの比高差は12m程度にすぎない。また、同参考地を桓武陵とする根拠とされている「光厳院古図」も、陵墓の公的祭祀がとだえて久しい室町時代の史料であるところに難点がある。
 そうすると、桓武天皇陵の位置に関して最も可能性の高い想定は、後に伏見城の内郭(さらに近代にはいって明治天皇伏見桃山陵)となった伏見区桃山町の丘陵そのものを兆域とし、その中のひとつの峯を山陵の本体としたというものではなかろうか。桃山丘陵の中の峰であるならば、径80mの規模を持ち、また周囲の平らな部分からの比高差が30mあったとしても驚くにはあたらないからである。また、『延喜式』に記された桓武天皇陵の兆域の一辺約1・2・という大きさは、桃山丘陵全体がほぼすっぽりおさまるものなのである。そうすると、桓武天皇陵の本体の候補地としては、現在の明治天皇陵の西北、伏見城二ノ丸跡にあたる丘陵の頂部(標高100m)をあげたいと考える。もしこの想定があたっているとするならば、桓武天皇陵の本体は伏見城の建設にともなってまったく削平されてしまっている可能性が高いと見ざるをえないであろう。 

桓武天皇陵想定位置図

※山田邦和「桓武天皇陵はどこにあったか」
(森浩一編著『森浩一70の疑問 古代探求』 中央公論社 1998)

※さらに詳しく知りたい方は、山田邦和「桓武天皇柏原陵考」
(『文化学年報』第48輯所収、京都、同志社大学文化学会、1999年)をご覧ください。

謎の石棺


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