九鬼周造「書齋漫筆」三(3/3)

 私は『那先比丘經』の紙表紙の綴絲の切れたのを取り出して久し振りに風に當てよう。『維摩經』や『中觀論』や『碧巖祿』とはまた違つた面白味がある。彌蘭王と那先比丘との問答は人間が自らに問ふ深遠な問と答とを包藏してゐる。問題としてはショーヘンハウエルの「個人の運命」と共通の問題であり、解決の方法としてはニーチェの「ツァラトゥストラ」の解決と類似の點がある。彌蘭は問ふ。何故に一切の人々は等しくないか。何故に人には長命と短命とがあるか。何故に體質に多病と少病とがあるか。何故に生まれつき貧者と富者があるか。何故に階級に高貴と下賤とがあるか。何故に外貌に端正と醜惡とがあるか。何故に頭腦に明敏と闇愚とがあるか。那先は彌蘭に反問する。何故に一切の果實は等しくないか。酸いものもあり、苦いものもあり、辛いものもあり、甘いものもある。何故に等しくないのか。彌蘭は種子が異つてゐるから樹も異り、從つてその樹の結ぶ果實も異つてゐると答へた。そこで那先は教へる。種子を蒔けば根や莖や葉や果實を生じ、斯くて種子を得る。その種子を蒔けばまた根や莖や果實を生じ種子を得る。同じことが限りもなく繰り返される。人生もまた斯くの如くである。過去、未來、現在は轉々相生じて絶えることがない。鷄は卵を生じ、卵は鷄を生じ、その鷄はまた卵を生ずる。過去は現在を經て未來へ行く。未來はまた過去へ戻つて行つて現在が幾度となく繰り返される。那先は更に地面に車輪を畫いて圓に起點の無いことを示した。現在の我は幾度か再生した我である。再生した者は同じ者か異つた者かという彌蘭の問に對して、子供であつた自分も成人した今の自分も同じ自分であると那先は答へる。燈火は夜通し燃えてゐるではないか。宵に目覺めた時に見る焔と、夜半に目覺めた時に見る焔と、明方に目覺めた時に見る焔とは同一ではないと云へよう。それでも矢張り燈火は同一ではないか。同一の燈火が夜通し燃えてゐるではないか。那先は燈火の譬を引いて超時間的永遠と時間的經過との相關の問題を巧に直觀させてゐる。永劫囘歸の觀點から『那先比丘經』と『ツァラトゥストラ』とを比較して見るのは興味ふかいことである。また輪廻の問題を中心として印度思想とギリシア思想との交渉を考へて見るのも面白いことであらう。一般人はかういふ問題の含蓄と展望とを知つて置くだけでも意味がある。一般人には高く空を仰いで冥想に耽けることが餘りに缺け過ぎてゐる。永遠を想ひ無窮を追ふことが餘りに無さすぎる。

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 最後に私は藤原濱成の『歌經標式』の寫本を蟲に喰はせてばかり置かうとは思はない。濱成は何よりも歌の音樂性を要求してゐる。彼によれば歌には韻がなければならない。韻は通俗の言語と異つて遊樂の精神に長ずるものである。わが國の詩歌の起源は雅妙なる音韻を盡した有韻歌の出現と一致してゐる。近ごろの歌人は歌句に長じてはゐるがいまだ音韻を知らない。上古になぞらへるに既に春の花のよそほひ無く、後世に傳へるに秋の實の味を見ない。およそ歌は鬼神の幽情を感ぜせしめ天人の戀ごころを慰むべきものである。いまここに彼等を感慰するために新例を建て韻曲を抄し合はせて一卷となし歌式と名づけると云つてゐる。奈良朝末期に出來た『歌經標式』の和歌聲韻説が漢詩の影響の下に成立したものであることは爭ひ難い。しかし牽強附會の説として一概に見棄ててしまふのは甚だ間違つてゐるであらう。『歌經標式』は和歌の理論の濫觴である。中世、近世の歌論から今日に至るまでの日本詩歌の理論の根本は濱成の説を構成する理念に贊成するか反對するかのいづれかである。清輔の『奧義抄』や俊成の『古來風體抄』の意味も『歌經標式』を知らないでは十分にはわからない。明治の旗野士良と佐藤誠實との論爭も今日の萩原朔太郎氏と三好達治氏との對立も結局は『歌經標式』の歌論の根柢に横たはる指導原理に贊否のいづれを表明するかに歸着する。森鴎外、岩野泡鳴、正岡子規等は日本詩に押韻を試みて詩歌の音樂性を強調した點で『歌經標式』の側に立つものと見ることが出來るであらう。數年前にも私は指摘して置いたのであるが、日本語の詩歌の理論の端初として、且つ一義的明確さを以て一方向を踏みしめたものとして、『歌經標式』は大きい意味を有つてゐる。僅かに竹田祐吉氏の『上代文學集』の中に假名交り文として收録され、最近、三枝博音、久曾神昇兩氏によつてやはり假名交り文として日本哲學全書の『藝術論』の中に收擇されただけであるとふやうな状態では、餘りにも心細い次第である。原文そのままの覆刻刊行を私は切に願ふものである。私が原文の覆刻を主張するのは『歌經標式』の歌論が文字使用法を豫想してゐる場合があるのみならず、假名交り文は書き改めた人の主觀的解釋によつて歪められる懸念があるからである。武田氏のものにしても、三枝、久曾神昇兩氏のものにしても、麁韻、細韻の區別のところあたり私はこれら諸氏の讀み方には全然同意できない。しかも讀み方の如何によつて麁韻と細韻とを區別する原理までが全く違つて來るのである。『歌經標式』にとつてそれは決して小さい問題ではない。假名交り文をそのまま信頼することによつて讀者は時として無理解と誤謬の袋道へ追ひ込まれるのである。要するにわが國上代の文獻を假名交り文に書き改めることは一種の飜譯に過ぎない。岩波文庫に入れる書物の相談をうたけときに私は『歌經標式』を原文のまま覆刻することを特に勸めて置いた。全體でごく短いものではあるが、竹柏園本と東京帝室博物館本と他の三種の傳本とをいづれも原文のまま覆刻し、それに原典批判と假名交り文とを添へれば星印の一つ位の頁數にはなるであらう。『歌經標式』の本に『喜撰式』『孫姫式』『石見女式』の三つを加へて謂はゆる和歌四式を一册として出せばなほいい。『歌經標式』は幸に京都帝國大學の附屬圖書館に竹柏園主の所藏する古寫本の新しい寫しがあつたので、私はそれをまた寫させてやつと座右に備へることが出來たのである。濱成の『歌經標式』は空海の『文鏡祕府論』よりも古く從つてわが國の文學論の嚆矢である。日本の最初の文學論が原文のままでは刊行されてゐないといふ状態にある。たとへ從來價値が少ない著作と考へられてゐたからだとしてもなほ文運を誇る昭和の現代としてはいささか恥かしい次第ではあるまいか。

 もう一つ取り殘してゐた小さな本があつた。忘れてはならない氣がするから追加して置かう。エピクテトスの『遺訓』である。これは私には大切な書である。この書を讀んだか讀まなかつたかで私の生涯は恐らく違つたものであつたらう。ローマの哲學者エピクテトスは後には解放されて自由の身となつたが初は奴隸であつた。彼は主人に虐待されて片足が不具になつたと云はれてゐる。しかし、彼は鐵石のやうな不撓の精神をもつて終始した。「跛は脚の障碍であつて、意志の障碍ではない」と云つてゐる言葉にもよく彼の氣魄があらはれてゐる。私が一高在學中に岩元禎先生とこの書とを同時に知り得たといふことは私の生涯にとつては決定的意味を有つてゐた。私の榮達以外に追求すべきもののあることを私は確實に認識した。幾度か蹉跌してもその都度、立ち上がる力を私が見出し得たのもエピクテトスの賜物と云つてよいであらう。私が學問の道にあつて比較的獨立獨行で人に頼らないで進んで來たことや、萬事につけて世間を顧慮しないで自ら信ずるところを行ふことができるのもエピクテトスから學んだストア精神によるものだと思ふ。私は西郷南洲の「人を相手にせずに天を相手にせよ」といふ言葉が好きであるが、これもつまりはエピクテトスの根本精神と同じものである。人を相手にしないで天を相手にするといふことは實生活にあつて大きい力である。「獨立不懼」という地盤をおのづらか踏みしめることができるのである。左顧右眄して他人の思はくばかり氣に懸けてゐては力の籠つたことは何事も出來ない。世事の煩累や論議の躁音の眞直中で確乎たる方角へ導いてくれるものは「人」から離れた客觀性である。即物性である。それが「天」である。客觀性を、即物性を唯一の規準とするときに自己の判斷に信頼することも出來るし、また自己の謬見を是正することも出來るのである。人を相手にしないとは人を愛しないといふ意味でないことは云ふまでもない。天を相手にすることによつて初めて本當に人を愛することができる場合が屡〃ある。私の實生活を指導するものがエピクテトスだけであるといふわけではない。私はエピクテトスよりも一層多くエピクロスによつて導かれてゐるかも知れない。私の血に交つて流れてゐるものは意志の哲學の要素よりも享樂の哲學の要素の方が遥かに多分であると云へよう。それにも拘らず、エピクテトスの『遺訓』から與へられたものが私にとつて缺くことのできないものであることは認めないではゐられない。現代人にはエピクテトスの教訓の全部をそのまま肯定することはもちろん不可能であるが、私は書棚の隅に埋もれてゐた『遺訓』を取出して時々は讀みかへしたいといふ氣になつた。「常に哲學者であることをもつて滿足せよ。おんみが誰かに哲學者と思はれることを欲するなら、まづおんみ自身にさう思はせるがよい。それで十分である」といふ言葉の意味を深く理解して行くことは私の願ひである。

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 私はこれで数册の書物の風いれをしたから書齋の漫筆を終らうと思ふ。

昭和十一年六月 『九鬼周造全集』五卷

最終更新日: 2002年8月21日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com