野上豐一郎「能樂概説(序論)」一(1/5)

 すべての舞臺藝術はその本質を繹(たず)ぬれば皆さうである如く、能樂もその生成の意向を求むれば、一つの提示藝術として作り出されたものであることはいふまでもないけれども、その仕立て上げに他の別種の藝術成分が取り入れられてあるので、特殊の形態をかたちづくつてゐる。その點をまづ十分に理解してかからないと、能樂の考察を正しく導くことは困難であらう。

 此處で提示といふのは、敍述と對照的關係に立つて、あらゆる舞臺演伎の胚種的動機となるものである。藝術の根本的形態について考へて見ると、敍述本能が強く發動する時は、説話者は過去の事件を敍述することに專念し、物語が作り出される。もし物語が詩の形式を取ればそれは敍事詩となる。之に對して、提示意欲が強く發動する時は、説話者は説話者であることをやめて、自ら説話中の人物に扮して、事件を現在の形に於いて提示することに努め、演伎が作り出される。もし演伎が詩の形式で提示さるれば劇詩となる。能樂は一種の劇詩である。

 『平家物語』の作者や『源平盛衰記』の作者が、平家沒落の運命について説話した態度は敍述的であつたが、それを資材として取り上げ、修羅物の能を作り出した能樂作者の態度は提示的であつた。例へば、平家一群の武將たちの中で、歌人武將として聞えた薩摩守忠度の行動は、能樂作者世阿彌元清の心を強く捉へた。殊に忠度が自信を持つた詠歌は敕撰和歌集の中に選拔されながら、彼は晩年朝敵の名を蒙るべき運命となつたため逸名歌として發表されたことに不滿を懷いて、遂に須磨の浦で戰死した。その執心の救はれない熱烈さを洞察した世阿彌は『忠度(ただのり)』を作つて、歌人武將の浮びきれない焦燥の情緒を舞臺の上に提示した。忠度は清盛の末弟で、戰死した時はすでに四十歳を越えてゐたけれども、世阿彌は、若若しい公達として彼を仕立て上げた。黒垂・白鉢卷に中將の面を掛け、梨烏帽子を被て、着附唐織・半切に長絹を衣紋に着なし、太刀を佩き、矢に短册を附けて箙にさしたところの扮裝は、目のあたりに平家の公達を見るが如き印象を見物人に與へたに相違ない。世阿彌は作者であると同時に役者でもあつたから、恐らく自分でも忠度に扮して演じたことがあつただらう。『平家物語』や『源平盛衰記』では、事件が説話者を通じて間接に過去の物語として敍述されてあつたのが、能では現在の出來事として直接に目前で提示されるのであるから、それを見たり聞いたりする見物人の側の印象は、物語を讀む場合とは全然別個のものでなければならぬ。

 しかし、演伎を見せたり聞かせたりするにしても、或ひは物語を讀ませたりするにしても、いづれも相手が假想されてあることに於いては似てゐるが、更に今一つ、相手を假想することなしに作り出される別種の表現樣式がある。心中に包みきれない感懷を一定の律動的形式で表現する和歌の類がそれである。敍事詩・劇詩に對して抒情詩とも呼ばれる。(此の種類の表現にも相手を假想することはあり得るけれども、藝術發生の本源の形相に於いては相手を假想することを必要としなかつたものである。)

 相手を假想することのない和歌の類は、之を第一人稱的表現といふことができるが、之に對して常に見物人を假想して作り出される提示的な演伎は第二人稱的表現といふことができるし、また、間接に第三者の讀者を假想する敍述的の物語は第三人稱的表現といふことができる。しかし、今われわれは見物人を相手にする舞臺藝術のことを問題にしてゐるのだから、第一人稱的表現についてはしばらく觸れないで置く。第三人稱的表現なる物語も、その本來の性質からすれば、當然除外してよいわけではあるが、こと能樂に關する限りに於いては、それを簡單に除外してしまふことのできない理由がある。そこにこそ能樂の形態の特殊性と關聯した重要な問題が潛んでゐるのであるから。

 端的にいへば、能樂は提示成分と敍述成分の混合體として完成されたものである。本來舞臺藝術として仕立てられるためには、提示成分によつてのみ仕立てられなければならなかつた筈であるにも拘らず、能樂には多分に敍述成分が混入してゐるのは何故であらうか。しかも、構成を仔細に檢討して見ると、その混入の状態は、提示成分を主體とする組織の中へ敍述成分が單に附加的に介在してゐるといふのではなく、敍述成分が提示成分に劣らぬ重要性を以つて混合してゐるのである。否、見方によつては、むしろ反對に、敍述成分を主體とする組織の上に提示成分が附け加へられ、それでゐて、一見いかにも提示表現としてまとまつたものに受け取れるやうな工作が施されてあるのである。それは詞章を分解して見れば容易に理解されることであるが、それよりもまづ必要なことは、各個の作品の演出樣式について、作者の提示意向・敍述意向がいかなる状態で表現されてあるかを吟味して見ることである。

 例へば脇能物の『高砂(たかさご)』について見ると、播州高砂の松と津の國住吉の松が海を隔てて神祕的に相生であるといふことによつて、夫婦の和合を示し、それが社會組織の單位として、種族繁榮・國家永續の可能が祝福される。それが此の作品の主題であるが、同時に、今一つの附隨的主題として、和歌の威力といふものが唱道され、『古今集』の序文を典據として、和歌の徳は人の心を支配し、社會秩序を維持するものだと傳統的に信じられてゐたので、和歌の典型的樣式を完備した『古今集』を更に古典的な『萬葉集』と併用することによつて、一層強固(きようこ)な統制が保たれねばならぬと主張されてある。此の駢列的聯想に於いて、住吉の松は『古今集』で、高砂の松は『萬葉集』であり、前者は夫で、後者は婦である、と解釋されてある。それを舞臺の上に提示するために、作者世阿彌は主要役者を三人登場させてゐる。シテ(尉)・ツレ(姥)及びワキ(旅の神主)である。その外に、ワキは二人また四人の役者を伴なひ、第一場と第二場の間に狂言役者(浦の役者)も出るけれども、それ等は本來單に形式を與へるための便宜にすぎないものであつて直接の行動に關係はない。

 演伎の經過を述べれば、初めにワキが次第(しだい)の囃子(はやし)で登場し、次第の謠をうたひ、名宣(なのり)を言ひ、道行(みちゆき)を謠つて高砂の浦に着くと、次にシテとツレが眞一聲(しんのいつせい)の囃子で登場し、眞一聲の謠をうたひ、サシ・下歌(さげうた)・上歌(あげうた)を謠つてワキの前に出る。次にワキから話しかけて、シテ・ツレ・ワキの問答(もんだひ)がある。此處までは提示意向が現はれてゐて、いかにも劇的進行を續けさうに見える。しかも問答の内容は、相生の意義であり、夫婦和合の説明であり、『萬葉』『古今』竝立の暗示であり、延いてはそれが天下泰平・國土安全の基礎ともなるべきことに言及する。ただし、此の最後の部分は合唱歌(地謠)によつて代辯される。合唱部は多くの場合シテの代辯者の役を勤める。殊にそれから先の最も主要な部分の詞章即ちクリ・サシ・クセは殆んど全部合唱部の吟唱である。そのクリ・サシ・クセで最も重要な主題的説明——松の常緑によつて象徴される繁榮と鞏固の意義——が敍述される。その部分では提示さるべき殆んど何物もなく、シテは舞臺中央に坐つたきりで、ただ合唱部が囃子方に助けられながら吟唱を續けるのみで、吟唱の詞章は徹頭徹尾敍述意向に裏付けられたものである。次にロンギとなつてシテとツレは退場する。ロンギはシテと合唱部の掛合の吟唱で、合唱部の吟唱の初めの部分はワキの代辯であるが、最後には作者の側からの敍述となる。以上が第一場で、その部分は主として見物人の耳に訴へて聞かせるやうに工作されてあるのが特長である。上述の如く、初めにワキが登場し、次にシテ・ツレが登場し、問答に入る所までは、提示的演伎の形式を備へてゐるけれども、結局は、そこまで見物人の興味を惹きつけて置いて、それから後でシテに主題を説明させるのが目的であり、その説明は實はシテの代りに合唱部に敍述させるといふ形式を取つてゐる。内容からいへば、シテ一人の演伎であり、形式からいへば、合唱部が敍述者である。

 次に第二場は第一場と趣を異にし、場面は住吉の浦で、初めにワキの待謠(まちうたひ)があり、出端(では)の囃子で後(のち)ジテが住吉の明神に扮裝して現はれるのだから、これは提示的表現と見ることができる。明神出現の理由はワキの來訪をねぎらふためであり、その意味で颯爽たる舞踊(神舞(かみまひ))を見せ、最後のロンギで聖代を祝福する。しかし、此の場面は『高砂』全體の均齊から見れば一種の結末的タブロオの如きもので、主題的敍述はすでに前場で終つゐるのであるから、舞踊そのものはもちろん重大な價値を要求するものではあるけれども、舞踊がクセ以上に重大なものと速斷することはできない。公平にいへば、世阿彌が開聞(かいもん)・開眼(かいげん)といふ言葉で説明したやうに、すべての能樂の作品には耳に訴へる要點(開聞)と目に訴へる要點(開眼)があり、クセは前者で、舞踊は後者であるから、前者の敍述表現は、單獨に見れば、同等價値のものと考へてもよい。けれども、作品を一つの全體として評價するならば、その二つの要點の配置によつて重みに多少の徑庭があるものと見ることもできる。といふのは、能樂構想の原理として序破急の法則が採用され、それをば世阿彌も強調してゐるが、その理論に據ると、序一段・破三段・急一段、合せて五段の構成が妥當な標準であり、その中でも破の後段が最も重要な部分である。『高砂』についていへば、初めのワキの登場は序の段、次のシテ・ツレの登場は破の前段、問答から合唱歌に移る所は破の中段、クリ・サシ・クセが破の後段、最後の後ジテの舞踊は急の段である。だから、舞踊も重大なものではあるけれども、クセは全體的に見てそれ以上に重大なものといふことができる。

 また、舞踊が提示される時はシテ一人が行動し、ワキは舞臺の一隅に靜坐してそれを見物してゐるが如き形を保つにすぎないから、此處でもシテ一人の演伎といふものが際だち、ワキは阿蘇の宮の神主といふことで登場はしてゐるけれども、實はどこの宮の神主でもよく、或ひは神主でない他の身分の者でもよく、結局は見物人を代表して登場し、シテに主題を敍述させ、最後にシテに舞踊させるやうに誘導するだけの役目とも見ることができるものである。

 次に修羅物の『忠度』について見ると、主題は歌人武將としての主人公の詠歌に對する執心を見せることにあるのは前にもちよつと述べた如くであり、登場役者の主要なものは、シテ(忠度)とワキ(旅僧)だけで、ワキは二人のツレ(從僧)を伴なふけれども、これは形式を整へるためにすぎないから無視してもよく、別に狂言役者(所の者)が第一場と第二場の間に出るけれども、これも本筋に關係はないから問題にしないでもよい。シテは『高砂』の場合と同じく前後二囘登場し、第一場に於いては無名の老翁に扮して忠度のことを過去の物語として話し、第二場に於いては忠度その者に扮して登場する。かういふと、第一場は敍述的場面で、第二場は提示的場面であるかの如く受け取れるかも知れないが、事實は必ずしもさうではない。今構成の状態を序破急の理論によつて跡づけながら提示成分と敍述成分を區分して見ると次の如くになる。

 まづ初めにワキが次第で登場して、名宣をなし、サシ・下歌・上歌で須磨の浦に着くところは序の段で、提示的場面である。次にシテが一聲の囃子で登場して、サシ・一聲・サシをうたひ、ワキの前に現はれるところは破の前段で、これも提示的場面である。次に問答となつて、主として若木の櫻(此處では忠度の記念に植ゑられたとなつてゐる)が問題とされ、その花の蔭で一夜を過ごすことを勸めてロンギで中入する時、シテは身分を明かし、ワキは囘向を約束する。これまでを破の中段と見ることができる。これも提示的場面である。作者世阿彌は此の曲の説明部分をば第二場に置いたため、第一場は提示成分のみとなり、却つて第二場が比較的分量も大きく、價値も重大となつてゐる。破の後段では、まづワキの待謠があつて、後ジテは一聲の囃子で登場し、サシで出現の理由を告白する。『千載集』に採用された彼の詠歌が逸名となつてゐることに對する不平である。しかし、撰者俊成はすでに此の世を去り、今は後繼者定家の時代であるから、その不平を定家に訴へてもらひたいとワキに懇願する。ワキの旅僧はもと俊成に仕へてゐた者で、今こそ出家してはゐるけれども、隨つて定家とも關係があり、それを知つて忠度の亡身は彼を道に要して懇願するのであるから、此の曲ではワキは單なる見物人の代表者の立場から一歩事件の中へ跨ぎ込んでゐると見ることができる。此處までは明らかに提示的場面の連續である。けれどもそれにつづくクリ・サシ・下歌・上歌(クセの代りに下歌・上歌が插入されてある)の重要な部分は敍述的意向で綴られたもので、しかもそれを吟唱する合唱部はシテの代辯者ではなく、「中にもかの忠度は、文武二道を受け給ひて世上に眼高し」といふワキの讚辭をサシの冒頭とするほどにその詞章は批判的敍述であり、客觀的敍述である。サシから下歌・上歌へかけての敍述を全部ワキの側からのものと見ることは妥當を缺くであらうけれども、少くとも、それは作者の側からの敍述と見ることは不合理ではない。敍述は一轉して一の谷の合戰の場面の提示となる。そこにシテのカケリが插入されるのは、源氏の軍勢に追はれて海へ逃げ行く平家方の焦燥の表現である。「われも船に乘らんとて、汀の方に打ち出でしに」以下のシテの言葉は、場面が提示的になつたことを示すものに相違ないが、しかし、注意しないと見物人は此の邊から作者の魔術でごまかされる。舞臺では忠度と岡部の六彌太の格鬪が展示される。但し、役者は忠度に扮したシテ一人である。(ワキは脇柱の蔭に坐つてわれわれと同じく見物してゐるきりである。)六彌太が忠度に組みついて、二人は馬と馬の間に落ちる。忠度が六彌太を組み伏せて、腰の刀に手をかける。その腕を六彌太の郎黨が後から斬り落す。忠度は殘つた今一つの腕で六彌太を投げつけたが、すでに敵に包圍されたから觀念して『觀無量壽經』の一節を讀踊してゐると、六彌太のために首を打ち落される。もし純粹の提示成分のみで演出されるのならば、此處で忠度は舞臺の上で存在を失はなければならない筈であるが、その後で六彌太は首級と屍骸を熟視すると、年齒まだ少ない公達で、身には錦の直垂を着て、箙に短册を附けてゐるので、それを手に取つて讀んで見ると初めて薩摩守忠度であつたことを發見するといふ一段が附け足されてある。その動作をば誰がするかといふと、をかしなことではあるが、殺された筈の忠度自身がするのである。舞臺的には許すべからざる矛盾ではあるけれども、もはやその時シテは忠度ではなく、忠度に扮してゐる一役者にすぎないといふことが見物人には(恐らく半無意識的に)理解されてゐて、舞臺的矛盾も寛大に見遁されてゐるからであらう。しかも、その矛盾は、巧妙な演出に於いては、殆んど氣づかれないほど圓滑に看過されるのは、見物人がばかされて一種の錯覺状態に陷るからである。けれども、それはいかにしても普通の提示表現ではなく、提示表現の如く見せかけてあつて、實は敍述表現なのである。いかに忠度は殺されたか、いかに忠度は發見されたか。これがその部分の敍述的題目であり、それを合唱部に吟唱させ、シテはただ插畫の如く行動するのみである。能樂の初期の作品にはそういつた不合理がしばしば見出されるが、演出の點からいへば、シテ一人を本位とする建前の缺陷であり、構成の點からいへば、提示成分と敍述成分を混同する結果である。最後に此の曲には短い結末の詞章が附け加へられ、シテは再び忠度の立場に歸りワキに囘向の完成を依頼する。それが急の段となつてゐる。

 次の鬘物の『東北(とうぼく)』について見ると、東北とは東北院の略稱で、昔は上東門院の住はれてゐた宮殿であつたが、その宮殿の一角の今は寺の方丈の西の端になつてゐる所が、上東門院に仕へた和泉式部の部屋であつた。その軒端に式部の植ゑた一樹の紅梅が美しく咲き出てゐると、其處に式部の亡身が現れて、昔の花やかであつた生活の思ひ出を語るといふ筋である。登場役者は、シテ(和泉式部)とワキ(旅僧)を主とし、ワキには二人のツレ(從僧)が付き添ひ、別に狂言役者(所の者)がシテの中入の間でシャベリをするほかにも、第一場の初めの部分でワキと問答をもするけれども、曲全體の行動に重要な役目であるわけではない。女主人公和泉式部は辨内侍とも呼ばれ、多情多恨の歌人で、浮名を謠はれた婦人であつたが、此の曲では(男子としては業平の場合の如くに)藝術の徳によつて死後歌舞の菩薩となり、成等正覺を得たとされてゐる。その機縁となつた詠吟は、或る時、御堂の關白道長(上東門院の父)が『法華經』の『譬喩品』を車の中で高らかに讀誦して門前を通つた時に感激して詠んだもので、『譬喩品』に記載された三つの車の寓話の聯想から飜然飛躍して、三界の煩惱を放下しようとする決意を示したものであつた。謂はゆる「花心(はなごころ)」の感覺生活の心境から離脱淨化して天界の聖列へ約束されたのも結局は和歌が「法身説法(ほつしんせつぽふ)の妙文」になるが故である。そういつたことが主題として受け取れるが、第二場のクリ・サシ・クセの一聯の詞章はその主題を敷衍して、花の都の春の景觀の中にも見佛聞法の契機となるべき數數のものがあることを述べ、殊に東北院繁昌の描寫を通してそれが擧げられてある。その詞章は破の後段の主體を成すもので、表現はどこまでも敍述的であり、しかも和泉式部の立場からではなく、作者(世阿彌)の敍述として合唱部が吟唱するやうにできてゐる。その吟唱の間にシテは立つて舞ひつづけるけれども、元來シテの敍述でない詞章を内面的に妥當にシテが表現し得る筈はないから、その動作は單なる表面的・機械的のものであることは止むを得ない。しかし、それにつづく舞踊(序舞(じよのまひ))は和泉式部の昔の美的生活の囘想を表現するもので、「色に染み、香にめでし昔を、よしなやいまさらに、思ひ出づればわれながらなつかしく、戀しき涙」を催すといふ述懷が引き出される。これは成等正覺を得た者の言葉としては不合理でなくはないけれども、見方によつては、美なるものへ囘歸することは歌舞の菩薩の特權として考へられたものかも知れない。少なくとも東北院を訪問した旅僧にとつては、それは毫末も不合理なことではなかつたのであらう。といふのは、此の曲の主要部なる第二場は、すべて旅僧の夢の中の幻覺といふことになつてゐるのであるから。

 此の曲も第一場の初めの序の段のワキの登場から、呼掛(よびかけ)で里女の姿をしたシテが登場して、軒端の梅のことについて問答する破の前段までは、詞章が提示成分によつて綴られてあるけれども、さうして、第二場となつて、一聲の囃子で高貴な扮裝(着附摺箔・長絹・緋大口)をした和泉式部が現れてから後も、まだしばらくは提示的場面がつづくけれども、主要部は前述の如く敍述的場面となり、最後の急の段は訪問者の幻覺であつたことの説明で結ばれる。

 シテを中心とする構想も此の作に於いては顯著であり、隨つてワキは單なる見物人の代表者にすぎないといふ實質しか持つてゐない。

 以上三つの引例は、能樂の本源的形態ともいふべき脇能物・修羅物・鬘物の三種から、それぞれの種類の典型的曲目と認められるものを、能樂形式の完成者なる世阿彌元清の作品中から選擇したのであるが、その他の作品とても、敍述成分を提示成分の中に織り交ぜて、しかも敍述成分を主要部分に置いてゐることに於いては同じである。さうして、更にわれわれの知り得たことは、その主要部分の敍述的詞章を吟唱する者は役者ではない合唱部(地謠)だといふことである。役者にはシテとワキとあるけれども、ワキはまだシテと對立するまでに成長してなく、謂はば見物人の代表者として登場するだけの役目で、舞臺の上でシテに話しかけ、シテの行動を誘ひ出すにすぎないから、嚴密な意味において役者はシテ一人である。しかも、そのシテの最も重大な主題的敍述を吟唱する者は、シテ自身ではなくて、却つて合唱部であることを記憶しなければならなぬ。

『能樂全書』第一卷一頁〜

最終更新日: 2004年7月29日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com