野上豐一郎「能樂概説(序論)」二(2/5)

 此處で合唱部といふものが問題となる。

 第一に、合唱部は提示的演伎に於いては本質的に不合理なものである。何となれば、合唱部の吟唱する最も重要な詞章(クセ)は原則的に敍述成分からできて居り、提示的演伎の進行を阻止するものであるから。次に、合唱部は形式上から見ても、提示的演伎にとつては甚しく不調和なものである。何となれば、提示的演伎に於いては役者が或る特定の人物に扮して行動するのに、いかなる特定の人物にも扮しない異分子の吟唱者が舞臺の片隅に坐つてゐるといふことは、それだけでも見た目に調和を破るものであるから。しかし、多くの見物人は見馴れるとそれを平氣に感じるが、それは眼が痲痺して來るからに相違ない。(その意味で音樂部即ち囃子方(はやしかた)が後座(あとざ)の前面に平服でじやじやばつてゐるのも、見方によつてはもちろん不調和であるが、それは今問題としない。)

 問題は、なぜ、いつから、さういつた不合理な不調和な合唱部が能樂に必要とされたか、である。能樂の起源については、年代をどこまで遡つてよいか、今日の研究では明確に言へないけれども、鎌倉時代の後期には能樂の原型ともいふべき初期能藝がすでに行はれてゐたと考へられる。少なくとも吉野時代に行はれてゐた能藝は、後に室町時代に入つて世阿彌の手で完成された能樂(當時はまだ猿樂の能藝と呼ばれてゐた)と比較して形に於いて殆んど大差ないまでに進んでゐた。その頃は能藝は初め猿樂の座でも演じ、田樂の座でも演じてゐた。能藝は初め猿樂の座で作り出されたのであつたけれども、吉野時代には田樂の役者の方にすぐれた者が多かつたので、猿樂の座は壓倒された形であつた。猿樂の役者が擡頭したのは、吉野時代の後期、主として勸阿彌清次の功績であつた。勸阿彌の藝統を繼いだ世阿彌は能藝に決定的の修正を加へて、遂に今日の能樂の基礎を築いた。それは室町時代の初期、主として應永年間の業績と推定されるが、その時は合唱部はすでに今日の形で取り入れられて、重要な價値が置かれてゐた。勸阿彌の時代とても同樣であつた。勸阿彌より一時代前の吉野時代とても恐らく同樣であつただらう。何となれば、それより更に一世紀近くも遡つた寛元年間(鎌倉時代中期)に於いてさへすでに、猿樂はその本藝であつた滑稽猥雜な物眞似的笑劇の外に、歌舞音曲を取り入れて、後の能藝にまで進展すべき演伎(亂舞)を作り上げてゐたのであるから。能勢氏の調査によると、『黄葉記』寛元四年六月二十八日、祇園御靈會の記載に、田樂法師と猿樂法師が推參し、猿樂法師の徒は頻りに藝を見せようとしたが追ひ立てられたといふ記事の下に、「可相從唱人歟」の註記があるさうだ。その唱人なるものを地謠の吟唱者の意味に取つてよいとするならば、その頃からすでに合唱部なるものは猿樂の役者に附隨してゐたといふことになる。

 もしさうだとすれば、合唱部は能樂の發生と共に存在してゐたもので、初めから能樂の構成に不可分的關係を持つてゐたと見られる。さうして、その點われわれをしてギリシア古典劇の合唱部を聯想せしめる。

 ギリシア悲劇では、初めは合唱部が主體であつた。といふのは、ディオニュソス禮讚の合唱舞踊から悲劇は生まれたのであつたから。初めてテスピスが役者といふものを發明した時は、一人の役者が五十人の合唱部を相手に問答した。その後アイスキュロスが第二役者を作つて、役者と役者が舞臺の上で問答をするやうになつた時も、合唱部の人員はまだ五十人だつた。アイスキュロスの後にソポクレスが出て第三役者を立たせた時、合唱部は十五人に減らされた。(その以前に一時十二人まで減員されてゐた時代もあつた。)合唱部の減員は、それだけ合唱部の重要性が失はれたことを示すものであつた。それ以降は役者の人員にも合唱部の人員にも増減はなかつたけれども、次のエウリピデスは質的にひどく合唱部の重要性を減らして、殆んど存在價値のないものにしてしまつた。アイスキュロスの作品の或る物(例へば『助けを願ふ女たち(ヒケテイデス)』)に於いては、五十人の合唱部が女主人公であるやうな重要性を持つてゐたのが、ソポクレスの作品では、合唱部は主人公または女主人公に對する同情者もしくば忠告者の如き役目を勤めるにすぎなくなり、事件の中に深く入り込むことなく、外側からのみ働きかけるやうになつたが、エウリピデスの合唱部は、もはやそれだけの關心をも事件に對して持たなくなり、極めて冷淡な傍觀者もしくば批判者の如き立場しか取らなくなつた。言ひ換へれば、悲劇の興味はオルケストラ(圓形の合唱舞踊臺)に集つてゐたのが、次第にスケネ(方形の演伎舞臺)の方へ移つて行つた。即ち、役者の對話が合唱部の合唱舞踊の人氣を奪ひ取つたのである。それは紀元前五世紀に於ける傾向であつたが、その傾向は時代と共に増長し、次の次の世紀になると、合唱部は衰退の極、遂に全くギリシア劇から消滅してしまつた。

 ソポクレスからエウリピデスへかけての合唱部の衰退は、同時にギリシア悲劇の演伎としての成長を意味するものであつた。演伎の本質は、すでに述べた如く、提示表現でなければならないから、それには役者同士の對話だけで事件を進行させるべきであつた。同時に、ややもすれば提示意向と背馳する合唱部を抑制すべきでもあつた。それに氣づいてまづソポクレスが新しい傾向を實現し(アイスキュロスも晩年はそれに傚ひ)、エウリピデスが更にその傾向を強く推し進めたのは、演伎進展の立場からいへば賢明な行き方であり、そのために演伎は急速の進歩を遂げた。エウリピデスは演伎を生かし成長させるためには合唱部を殺さねばならなぬことをよく知つてゐたに相違ない。尤も彼は合唱部を殺してしまふことは敢へてしないで、却つて半死半生の状態に弱らしめるに止めたのであつたが、それには相當の理由があつた。合唱部をばその程度にでも形式的に殘して置かないと、作品をディオニュソス祭禮の競演に提出する可能がなかつたからである。(拙著『能の再生』一三四頁參照。)

 しかし、幸か不幸か、われわれの能樂には一人のエウリピデスも出なかつた。東山時代に到つて能樂革新の機運が起つた時も無能なワキを有能なワキに護り立てる運動はあつたが(そのことは後段で述べる)けれども、合唱部に對しては誰も改變の手を下す者はなかつた。それがため、能樂の合唱部は今日も六百年以前の形で不増不減のままに保存されてあり、その時と同等の重要性をなほ依然として要求してゐる。

 ギリシア劇の合唱部は、合唱歌を吟唱すると同時に、集團舞踊をも演じてゐたので、初めから扮裝の必要があつた。王ダナオスの娘たちとか、テバイの長老たちとか、ポイニケの女たちとか、さういつた集團の人物が、それぞれの身分にふさはしい假面と服裝を揃へて、アリストテレスの言葉を用ひれば、登場人物(ドラマチス・ペルソネ)の一員の如き資格でオルケストラの上で行動したのであつたけれども、能樂の合唱部は平服のままで、舞臺の片端に張り出された縁側に坐つたまま、各〃一本の扇子を持つてゐるきりである。また、ギリシアの合唱部は、冒頭の役者の序詞(プロロゴス)がすむと合唱登場歌(パロドス)をうたひながらオルケストラの上に列び、役者と役者で、或ひは役者と合唱部で話される插話(エペイソヂオン)の合間に(即ち役者が舞臺(スケネ)から退場してゐる合間に)殘留歌(スタシモン)をうたひ、最後に、役者が全部退場した後で、合唱退場歌(エクソドス)をうたつて退場するまで、殆んど全曲の長さの間出場してゐるのであつた。その點、能樂の合唱部も、最初に囃子方と同時に出場して、最後ので囃子方と共に殘留してゐるのは、よく似てゐるが、しかし、ギリシア劇の合唱部と能樂の合唱部の性格的存在理由には少なからぬ相違が見出される。ギリシア劇の合唱部はすでに述べた如く、初めは演伎の行動に直接交渉を持つ一種の登場人物(ドラマチス・ペルソネ)でさへあつたし、その資格が低下しても、なほ大體に於いて主人公または女主人公に對する同情者或ひは忠告者であつた。しかるに、能の合唱部は、多くの場合、シテ(主人公または女主人公)の代辯者であり、時としてはワキの代辯者であり、或ひは、作者の代辯者であるといふやうに、その資格に一定したところがない。資格が一定してゐないといふことは、要するに、その存在理由が明確でないことである。また、ギリシア劇の合唱歌は、殆んどすべて抒情成分からできてゐたが、能の合唱歌は、これもすでに見た如く、敍述成分からできてゐるものが多い。抒情成分は必ずしも提示意向の妨碍とはならないけれども、敍述成分は提示意向の妨碍となる場合の多いことはわれわれのすでに知つてゐる通りである。

 今から考へると、さういつた厄介者の合唱部を能樂が初めから脊負ひ込んで、しかもそれに重大な役目を擔させたといふのは、一應諒解に苦しむことのやうでもあるが、しかし能樂完成當時の事情を考察して見ると、それが果して完成者たちの無思慮といへるかどうかは問題である。むしろ反對に、彼らは却つてその點に大きな自信を持ち、誇りをさへ感じてゐたのではあるまいかとも考へられる。といふのは、例へば、合唱部の吟唱の中で最も主要な部分を占めてゐるクセに、その頃流行の曲舞(くせまひ)の拍節を取り入れて、本來小歌(こうた)がかりの律動を基調としてゐた能樂の中で全然異種の律動を聞かせることにしたといふのは、驚嘆すべき劃期的革新でなければならない。その革新は勸阿彌の工作であつたが、世阿彌がその意圖を承(う)けて完成した。その斬新な拍節を吟唱するためだけでも合唱部は十分に存在理由を持つてゐただらうと想像される。さうしてそれは提示表現を職能とする者には期待されないことであつた。

 小歌がかりと曲舞ぶしの聲曲上の對立状態はどんな風であつたかは、その後長い時代の經過の間に相互に影響し合ひ、融合してしまつて、今日の吟唱樣式からは推測することが困難であるが、假に下歌・上歌の吟唱の拍節が小歌がかりの名殘を留めて居り、クセの吟唱の拍節が昔の曲舞ぶしのおもかげを幾分かでも遺してゐると見てよいならば、それによつて兩者の特色の際立つてゐた状態もおほよその見當はつけられる。その特色は、また、兩者の詞章の造句法の上にも對立の形を示してゐる。即ち。謠曲固有の小歌がかりの詞章は七五調を以つて構成されるのが原則であつたが、新成分のクセには一定の格調がなく、謂はば固有の律動を破壞するかのやうに、全く自由の音節を以つてできる限りの變化を求めた迹が見える。今『東北』のクセの前半の句法を調べて見ると、45・55・545・75・555・75・54・535|4・45・65・65・445・67・45・75|といつたやうな、何等の基準も發見されない自由詩形である。そのために句と句の間(あひだ)に謂はゆる間(ま)が數多く生じ、それに種種の拍子を打ち込むので、一層強く律動の多樣性が感じられる。クセの今一つの特長は用語の自由性である。小歌がかりの吟唱の箇所には、原則として平安時代以來の雅語を用ひ、例へば「年月(としつき)を、ふるき軒端の梅の花、ふるき軒端の梅の花、あるじを知れば久方の、天(あま)ぎる雲のなべて世に、聞えたる名殘かや」といつた風に優婉の情緒を漂はせるやうな表現が連ねられるのであるが、之に對して、クセでは「處は九重(ここのへ)の、東北(とうぼく)の靈地(れいち)にて、王城の鬼門を護りつつ、惡魔を拂ふ雲水(くもみづ)の、水上(みなかみ)は山蔭(やまかげ)の加茂川や末白河の波風(なみかぜ)も」といつた如く、和漢混淆體を自由に驅使して行くところに、音節の自由性に詞章を調和させようとした意圖が看取される。だから能樂完成者たちが無思慮に曲舞ぶしを取り入れたとか、無計畫にそれを合唱部に吟唱させたとか推定することは當らない。その意圖には、單に律動の變化を求めようとするのみでなく、それによつて、多少粗笨の印象は免れなかつたとしても、それだけ清新の效果は期待されたであらうと思はれる。(類似の意圖はクセの冠帽ともいふべきクリ・サシの詞章にも、また、クセとは無關係に立つ他のサシの詞章にも看取される。)

 しかし、それにしても、クセによつて代表される合唱歌が概して敍述成分から出來てゐて、提示意向を阻止する傾向を持つことに對しては、いかに説明すべきか。これには殆んど辨明の餘地がない。強ひていへば、能樂は初めから純粹の提示藝術として意圖されたものでなく、提示表現と共に敍述表現をも包含させようとしたものと解する外はない。能樂の音曲構成は聲樂と器樂に分けられるが、聲樂には役者の吟唱合唱部の吟唱が對立する。(役者は吟唱の外に對話をも擔任するが、對話のことは別に考へてよい。)吟唱には謂はゆる拍子に合ふ吟唱と拍子に合はぬ吟唱の區別があり、拍子に合ふとは、器樂(主として大鼓と小鼓)の演奏と調和を保ち、一定の拍節を以つて吟唱されることで、拍子に合はぬとは、さうではなくて、役者の吟唱の或る部分(一聲・サシ・クリ・クドキ等)は拍子に合はないものであるが、合唱部の吟唱は殆んど拍子に合ふものである。(その中でもクセは拍子には合ふけれども句法が特殊であるために異色を呈してゐる。)役者の中でも、主役(シテ)の吟唱は拍子に合はない部分の多いのが特長となつて居り、これは對話の表現に接近してゐると見ることができる。それに對して、合唱部は主に拍子に合ふ吟唱を擔任することを思ひ合せると、能樂の吟唱は合唱部によつて代表されてゐることが明かに理解されるであらう。さうして合唱部の吟唱は多くは敍述表現であるから、能樂が初めから合唱部を必要とした事實に鑑みて、敍述表現は初めから意圖されてゐたと結論しても差支ないのである。

 それには、敍述表現はわが國中世に於ける一つの顯著な民俗的嗜好であつたことも考慮に入れねばならぬ。鎌倉時代中期以降、室町時代へかけて、多くの傳説集・軍記類・隨筆類・小説童話の類が氾濫したのは周知のことであるが、それ等は皆いづれも當時の時代的敍述傾向の現はれで、能樂の中の敍述成分の夥多といへど同じ傾向の別種の現はれでなかつたとはいへないであらう。それだけではなく、常に傳統を尊重するわが民族的嗜好は中世に於いて最も顯著な偏向を示し、何かの敍述をするにも好んで典據を擧げるといつたやうな行き方が流行し、能樂の敍述にもそれが隨所に看取される。敍述の部分だけでなく、提示の部分にさへもそれが少からず見出される。今日われわれの神經には繁瑣にさへ感じられるのであるが、當時の作者・見物人には恐らくそれは好ましい表現法で、さうしなければ滿足できなかつたものかとも思はれる。

 その傾向は敍述成分と提示成分を連結しても一向に平氣で、例へば「われも船に乘らんとて汀の方に打ち出でしに」といつたやうな敍述の言葉を役者に謠はせたり、その役者は忠度に扮してゐるにも拘らず、「六彌太、心の思ふやう」といつたやうな他人の事の敍述を謠はされたりもする。さうかと思へば、また、「御身この花の、蔭に立ち寄り給ひしを、かく物語り申さんとて、日を暮らしとどめしなり」といつたやうな忠度の心事を却つて合唱部に謠はせたりもする。要するに提示成分も敍述成分も、役者の吟唱も合唱部の吟唱も、その區分と分擔と、技術的には全く無方針で、ただ全體として一つの提示的主題を核心に包んだ樂劇的情緒の空氣を漂はしさへすればよいといつたやうな意向が窺はれる。世界の他のどこにも類例を見出せない奇怪な形態が作り出された所以である。

 上述の事情で敍述成分を提示成分と混同しても平氣であつた中世演伎の態度は、合唱部の存在理由を十分に裏書するものであるが、なほその態度は、意識的にか無意識的にか、恐らく無意識的にであらうが、近世の後續演伎に依つても踏襲され、江戸時代初期の歌舞伎劇(お國歌舞伎・若衆歌舞伎・野郎歌舞伎)に於いても、操人形に於いても、江戸時代中期以後の歌舞伎劇に於いても、皆一種の合唱部(淨瑠璃の類)を持ち、一種の囃子方(三味線を主體とする器樂部)を持ち、その形式が今日まで保存されて、在來の日本の舞臺演伎は悉く樂劇的要素を含まないものはなかつたといふ奇觀を呈してゐる。明治時代に入つて演劇改良の運動が起つても、内容的にその點に着目した革新運動は、西洋飜譯劇またはその影響を受けた謂はゆる新劇を除いては一つも見られなかつた。要するに、舞臺から合唱歌と音樂を驅逐した純粹の對話劇なるものは、わが國に於いては、西洋劇の影響の下に始まつたといつてもよいのであるが、その點、唯一の例外として能樂と共に成長した狂言が、室町時代に於いてすでに當時の俗語を使用する對話劇として行はれてゐたことは特筆に足る。(そのことは第五卷に於いて述べる筈である)。

『能樂全書』第一卷九頁〜

最終更新日: 2004年7月29日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com