野上豐一郎「能樂概説(序論)」五

 世阿彌が幽玄主義を唱道した事情は上述の如くであり、幽玄主義は室町時代の時代思潮に適應した表現樣式であつたから世阿彌の仕事は一層成功したのだといふことができる。しかるに時代の經過と共に風潮も變化し、能樂に對する要求も隨つて異なつたものとなり、從來の作品も多かれ少なかれ、改變されたであらうと思はれる形迹もあるが、それはそれとして、別に何等かの新樣式が期待されるやうになつた。といふのは、幽玄主義だけではあまりに單調で、次第に近代化して行く時代人心の興味をつなぎ留め難くなつたからであつた。

 その機運を先見して改革を企てたのは先に述べた小次郎信光父子で、幽玄本位の情緒主義から能樂を轉向させて、事件の複雜化劇的行動に重きを置き、從來無能視されてゐたワキを押し出してシテと同格もしくば同格以上の役目を與へ、その方面で能樂の新分野を開拓しようと試みた。初めは脇能物・修羅物・鬘物が能樂の本格的のものであり、殊に鬘物は幽玄成分の最も充實したものとして重要視されてゐたのであつたが、小次郎父子は四番目物のうちでも殊に現在物の發展に力を注ぎ、また切能物の中にも現在物的行動を盛つてワキを活躍させ、時代風潮の推移に適應しようと努めた。その意向は恐らく戰國時代に接近しつつあつた世態人心の要求を先見したものであつただらう。しかし、それが(今日から見て)十分に成功したといへないのは、見通しには間違ひはなかつたとしても、革新の工作に不備があつたからだと見ることができる。即ち、全體の基調は世阿彌風の幽玄本位の構成を踏襲しながら登場人物の行動だけを變調させようとしたからであつた。(別項『謠曲の構成』參照。)それならば、具體的に言つてどうすればよかつたかといふと、それはまた別問題になるが、繪畫に譬へれば、構圖を變へた以上は色調をも思ひ切つて變へるべきであつたといふことができる。しかるに、色調は原型の色調に傚つて單に抗爭のみに變化を求めたため、却つてその色調の褪せ方だけが目だつやうな結果になつたのである。つまり、幽玄の減殺が缺點であるかの如き印象をさへ與へたのである。むしろ、初めから幽玄本位を否定してかかつたならば、或ひはもつと徹底した革新ができたかも知れなかつたとも思はれる。

 けれどもさうなると能樂は根本的に變調されて、嚴密な意味で能樂以外の物になつたかも知れないといふ危懼があるかも知れないが、自由の目で大きく見通して、それは世阿彌の幽玄本位の能樂ではなくなつても、他の別種の能樂として十分に存在價値を要求し得たかも知れないのであつた。ギリシア悲劇の發展の歴史にたとへれば、ソポクレスの完成の後でなほエウリピデスの革新が有意義の存在であつた如くに。世阿彌の完成をソポクレスのそれに比較すれば、もし小次郎父子の革新が今少し徹底したものであつたならば、或ひはエウリピデスのそれの向ふを張ることができたかも知れなかつたのだが、小次郎父子は、エウリピデスがソポクレス的なものを否定した如くには世阿彌的なものを否定することを敢てしなかつので、その革新も中途半端なものになつてしまつたのである。

 小次郎父子の後には、しかし、もやは小次郎太の如く革新的精神を持った作者は出なかつたから、能樂の展開はそれきり中止してしまひ、殊に江戸時代に入つて後は能樂は全く古典視され、ひたすらその形態を保存することにのみ努力が費され、なほ幾多の「新作」も發表されたけれども、それは殆んどすべて古典の稚拙な模倣のみで、室町時代の昔に世阿彌自身が「能も當世當世を心得て、昔はかくなりとのみ心得べからず」と忠告した主旨などは、全く忘れられてしまひ、能樂を現代に生かさうとする精神は完全に失はれて今日に至つたのである。

  一箇年囘數(別會共) 『翁』 脇能物 修羅物 鬘物 四番目物 切能物  
觀世會 一五 (1) 6 2 9 25 12
鐵仙會   1 1 4 8 5
觀清會     1 2 7 2
研能會 一二 (1) 3 4 6 19 9
橘香會         3 1
梅猶會   1 1 1 1  
九皐會 一二 (1) 3 3 7 13 11
淡交會   1 2 3 8 7
寶生會 一三 (1) 3 3 7 17 11
金春會 (1) 1 2 2 5 4
金櫻會       1 2  
喜多會 (1) 2 1 3 8 6
梅若會 一一   1 3 9 14 7
能樂鑑賞會       4 5 3
  (6) 23 23 58 135 78 合計317

 さういつた無自覺の三世紀の經過の後、今日に置いてその古典化された能樂を現代に生かさうとすることは、ますます困難な状態となつてゐる。何となれば、能樂はその完成當時の創造精神はとつくに休止して、長い間ひたすらその技術の錬磨にのみ努力が拂はれ、形態の保存といふことだけが問題になつてゐたのであるから。それならば、今日の能樂は形態の傳統がどんな状態に保存されてゐるか。世阿彌の唱道した幽玄第一主義は今も果して完全に固守されてゐるか。といふと、大局から見て決して肯定的な答へ方をすることはできない。苟しくも多少とも能樂に親しむほどの者で幽玄の情趣のすぐれたものであることを理解しない者はないであらうが、しかし、幽玄そのものが本來中世的なものであつて、現代の好尚からはあまりにも遠ざかつてゐるために、ややもすればそれを敬遠する傾向のあることは蔽ふべからざる事實である。例へば、大小序舞物の『東北』『江口』よりも、大小中舞物の『熊野』『松風』を喜ぶ者の方が多く、更に或ひはカケリ物の『三井寺』とか『隅田川』とか或ひは舞のない『葵上』とか『景清』とか『鉢木』とか、或ひは男舞はあつても『安宅』とか『滿仲』(『仲光』)とか、さういつた物を歡迎する者が多いのは事實である。言ひ換へれば、世阿彌の謂はゆる幽玄無上の鬘物の中でも、必ずしも幽玄無上とはいへなくとも、比較的人情味の勝つた物の方が喜ばれたり、それよりも更に現世的で劇的な四番目物の方が喜ばれたりする傾向がある。その實例として最近一箇年間(昭和十六年七月から同十七年六月まで)に東京の各舞臺で上演された各種演能の曲目統計を取つて見ると前掲の如き數字を發見する。

 これは代表的定期演能會の上演曲目の透明であるが、その外に、能樂會式能、靖國神社奉納能、新穀祭奉納能、市民慰安能、鐵門會(年二囘)、果水會(年二囘)、綠門會(年二囘)、松本謙三後援會、金春流新作能發表會、古面大觀出記念能等に上演された曲目の合計は次の如くである。

『翁』 脇能物 修羅物 鬘物 四番目物 切能物
(1) 5 10 9 28 18 70

 之を前の數字に加算して各種類の曲目總數を求めると、

『翁』 脇能物 修羅物 鬘物 四番目物 切能物
(7) 28 33 67 163 96 387

 となり、即ち、最近一年間に東京で上演された能樂(『翁』は計算に入れない)三百八十七番の内鬘物は僅かに六十七番に過ぎないが、四番目物は百六十三番の多きに達し切能物は之についで九十六番に達してゐる。しかもこれは特に最近の現象といふわけではなく、近代を通じての一般的傾向であるから、極限すれば近代は四番目物全盛の時代であるといへる。尤も、近年は一囘の上演曲目が少く、大概は三番立であるから、選擇される種類に制限が置かれるけれども、それだけ却つて選擇に時代的特色が現はれるとも見ることができる。その意味からいつても、近代はますます四番目物全盛の時代といへるわけである。小次郎父子の革新の氣勢はそれきりで休止したけれども、さればといつて、世阿彌時代の幽玄第一主義に逆轉することはなく、やはり行動第一主義の傾向が今日まで持續してゐると見ることができる。つまり、世阿彌の幽玄主義は特に室町時代に適合した行き方であつて、それ以後は小次郎父子の行き方の方が一般的經傾向を代表するやうになつてゐると見るのが正しい。

 この傾向は今後といへども恐らく容易に改變されないであらう。少なくとも再び世阿彌時代の幽玄主義の支配する風潮に逆轉することがあらうとは考へられない。だから幽玄主義が能樂の最も本質的な行き方だとするならば、近代の傾向は能樂をすでに變質させてゐるといふこともできるのである。

 能樂を現代に生かすといふことは、それを問題として取り上げるならば、いかなる方法に於いて可能であるか。すべて藝術はその時代の生活内容と交渉を持たなくなれば、一種の骨董品(例へば舞樂が今日に於いてさうである如く)であるが、能樂がなほ多少なりとも今日に於いて存在理由を持つのは主としていかなる點に係つてゐるか、といふと、われわせが初めに見た如く、能樂は提示藝術としては多分に敍述成分を混同して奇怪な出發をして、そのまま成長してきたために、今日の或ひは明日のわれわれの舞臺藝術として、果して幾ばくの滿足を與へ得るかは問題であるけれども、但し、それは形態の方面から見た場合のことであつて、もしそれが表現精神の本質的作用の問題となると、われわせは今日もなほ能樂に教へられるものが多いことを知つてゐる。

 根本的にいふと、能樂は音樂舞踊の綜合藝術である。詩は言葉の律動によつて、音樂は音の律動によつて、さうして舞踊は動作の律動によつて、いづれも諧調を目ざし、諧調が形態を決定する。幽玄といふのも、つまりは、能樂のもろもろの形態の中での情緒的に最も完全な諧調を得た一つの形態に外ならない。その形態が今日のわれわれの鑑賞能力にいかに訴へるかを今問題として考へて見ようとするのではなく、室町以來の藝術家がその完全な諧調を作り出した表現作用の中にわれわれの民族的特長がいかに巧妙にあらはれてゐるかを觀察して置かうと思ふのである。

 第一に、能樂の詩としての美しさである。詩の美しさは言葉の律動とその内容の調和にあるが、殊に詩としての能樂は言葉の藝術であるから、まづ律動を以つて耳に訴へることが必要である。耳に訴へるものであるから、時間的藝術であり、律動が繼續的なわれわれを喜ばせるやうにあらゆる變化を求めて工作されてなければならない。諧律的な次第の次に散文的な名宣の言葉があつて、また更に諧律的な上歌の道行がつづくといふのもその工作の一例である。次第で登場したワキの後で、シテがあまり諧律的でない一聲で登場するといふのも巧妙な變化の一形式であるが、その後で諧律的な下歌・上歌を謠ふのも有效である。またさういつた形式の變化に應じて言葉の音聲的選擇が嚴密に行はれてゐることも用意周到である。清水寺を或いはキヨミヅデラと發音させたり、或いはセイスヰジと發音させたり、またワシュウチョウコクザン(和州長谷山)といふ言葉を避けヤマトハツセノテラ(大和初瀬の寺)と發音させたりするのも、すべて律動的調和の上からの配慮である。しかし、言葉の律動的調和は常にその内容に限定されるものであるから、單に音聲的な調和が取れてさへゐればよいとは限らない、世阿彌が「文章の法は言葉を約(つ)めて理の現はるるを本とす」と注意したのもその意味からである。そのためにはしばしば耳馴れた辭句をも厭はないで使用することになるので、活字で謠曲を讀む人は「つづれの錦」などと惡口をいふけれども、もともと聲に出して耳で判斷するべきものを目で讀むといふことが間違つてゐるので、その非難はあたらないことが多い。能樂の詩としての美しさを批判するには、與へられたフシで詞章を音聲にして、その抑揚・長短を律動的に復原して見なければならぬ。さうして見た場合の美しさは、あらゆる日本語の律動の美しさの最も優秀なものになつてゐることを誰しも發見するであらう。

 次に、能樂を構成する音樂(囃子)の特殊の美しさである。音樂の中で拍節を掌るものとしては、小鼓・大鼓及び太鼓があるが、前の二つはどちらも一つの手で打ち、後の一つは二本の撥で打つ。同じ手で打つ鼓でも、小鼓と大鼓とでは、その樂器の構造が全然別種である如く、その音色も全く別種である。小鼓の音色の霑(うるほ)ひのあるふくらみと大鼓の音色の鋭い冱えと對照をなす如くに、此の二つの樂器が共同作業として拍節を刻んで行くについても、時としては全然一致することもあるけれど、原則としては、それぞれの分擔箇所を別にしてお互ひに相補つて調和するやうに整理されてある。その最も簡單な場合の一例として三ツ地の手配りについて見ると、歌詞の75即ち十二シラブルを八拍子に分け、初めの四拍子をば大鼓が支配し、後の四拍子をば小鼓が支配する。大鼓は歌詞の始まる直前すら長い掛聲をして第三拍(歌詞の第五シラブルかたり)にカシラを一つ打つきりで、あとは小鼓にまかせる。小鼓は第五拍に當る歌詞の言葉(第八シラブル)に短い掛聲と共に乙(オツ)を打ち、一つ間を置いて、第七拍(第十シラブル)に甲(カン)、第八拍(第十二シラブル)に乙を、いづれも短い掛聲と共に打つ。またツヅケについて見ると、大鼓は第一拍にカシラ、第三拍にキザミ、第四・第五・第六拍にカシラを打ち、小鼓は第二拍から始めて、第二拍に乙、第四・第五に甲、第六・第七・第八拍に乙を打つ。そのうち、大小一致するのは第四・第五・第六拍であるが、初めの二つは大のカシラに對して小は甲を打つから、大小共に最上の音を出すのは大六拍のみである。即ち、75十二シラブル一聯の歌詞の拍節に於いて、大小完全に共同の最前を盡すのは第六拍のみで、その他は或ひは第が支配し、或ひは小が支配する、といつたやうに、錯綜交結して變化を作り出してゐる。これは最も單純な場合の例に過ぎないが、複雜な手配りとなればなるだけ變化も多く妙味も深くなるわけである。

 またそれに太鼓が入り込んで來ると變化は更に甚しく、太鼓は二本の撥で音を出すので、歌詞の75十二シラブルに對して八拍子を十六に刻み、拍節が細かになるだけ全體の手配りが賑やかになり、それに太鼓獨自の持つ派手やかな浮き立つた音色が助けていかにも花やかな諧調を作り出す。

 しかし、太鼓にしても大小鼓にしても打樂器だけに拍節を刻むことが根本の任務であるが、それに對して笛は本來調子の樂器で、音の高低も自由であり、能の樂器の中では唯一の旋律を掌るものであるから、他の異種の二樂器もしくば三樂器に對して、或る意味に於いては統率的任務を持つともいへるし、殊に歌詞の伴はない舞踊の場合には最も重要な役割をすることになる。

 能樂の舞踊の美しさは繪畫的といふよりは彫刻的で、平面的といふよりは立體的で、その律動的基本をなすものは日本民族特有の感性から來たものであるから、ダンスといふ西洋の言葉で説明しても十分に説明しきれない。日本語で説明しても、一般的に舞踊といつてしまつては實は不十分である。もともとマヒとヲドリは本質を異にするものであり、能樂の舞踊はマヒの代表的なものであり、歌舞伎の舞踊はヲドリの代表的なものである。能樂以前の舞樂の舞踊はマヒであり、神樂の舞踊もマヒであるが、歌舞伎以後の俗謠曲に合せて舞踊するものは殆んどすべてヲドリであり、盆踊・豐年踊、大漁踊、その他おけさ踊・金山踊・かつぽれ等皆ヲドリである。さういふ風に區別して見ると、マヒは古典的舞踊で、ヲドリは近代的舞踊であるとも取れ、年代的に見て、マヒは中世以前の舞踊、ヲドリは近代の舞踊といふ風にも定義されさうであるが、必ずしもさうとは限らず、中世に行はれてゐた空也念佛・鉢叩などはヲドリであり、近代に出來た舞踊の中にも(例へば京都地方で行はれる或る種の舞踊など)はマヒと呼ばれ、またマヒと認められて然るべきものである。それを歌詞の關係から見て、俗謠俗曲に合せて舞踊するものをヲドリと見ることも一つの見方ではあるが、さうすると能と共に發生した狂言の舞踊などは俗謠に合せて舞踊するけれどもマヒと呼ばれ、またマヒと認めて差支ないやうな成分を持つてゐる。また樂器の性質から判斷する方法もあるけれども、例へば三味線の諧調を基本とするもののみがヲドリとは言へない理由もあり、三味線の伴奏のない盆踊りなどはさしづめその一例となる。さればといつて、漫然と印象的な品位を標準にして、マヒは品格のある舞踊で、ヲドリは品位の乏しい舞踊であるといふことも妥當ではない。何となれば、ヲドリの中にも相當に品位のあるものもあり得るから。しかし、かういふことは言ひ得る。ヲドリは情緒を直接に表現しようとしマヒは情緒を間接に象徴的な表現しようとすることを建前にしたものである、と。但し、直接といつても、間接といつても、程度問題で、ヲドリの動作はすべて情緒の直接的表現で、情緒的に一一意味があるといふわけでもなければ、また、マヒの動作の中にも明確な情緒の裏づけの見えるものも少なくはないが、さういつた部分の問題は別として、概括的に見て、ヲドリの動作は情緒を直截簡明に、隨つて意味あるやうに表現しようとするものが多く、之に對してマヒの動作には、動作その物には意味はないけれども、極めて小數の基本的動作を巧みに結合して、その結果として一つのまとまつた意味を暗示するやうな表現となる場合が多いのである。

 また、マヒとヲドリの特長を技術的な比較すると、マヒは手の動作を主とし、ヲドリは手だけでなく足の動作も主要なものになつてゐるといふことができる。マヒが手の動作を主とすることには、能樂の舞踊は體躯の安定といふことに重きを置き、動作の靜かな場合はもちろん、いかほど急激な動作をする時にも體躯の安定が失はれてはいけないとなつてゐることと密接な關係があると思はれる。專門語で「腰を入れる」といふのも、その安定を得るために腰がぐらつかないやうな工作をすることで「腹に力を入れる」といふのはその工作の心がまへである。さういつた安定を確保した状態での動作は、いかなる姿勢を取つた瞬間にも重心が體躯の中央部にあるやうになるもので、動作が品位を保つといふのもその點から説明することができるであらう。缺點を擧げれば、さういつた行き方はややもすれば姿態の凝結を感じせしめる懼れはあるが、但し、それは技術の練達によって容易に除去し得る筈である。いかほど力を充實させても、力が力として外に現はれず、表面はいかにも柔軟に輕快に見えて、しかも寸毫も輕薄なところが感じられないといふ境地にまで達しなければ圓熟した技術とはいへない。能樂の舞踊はさういつた程度の圓熟を第一も目的として進み、其處まで到達すればその先は各自の天分によつてまたいかほどでも高い境地に達し得る筈である。さうして窮極の妙所は殆んど無に近い自由無風の境地だとされてゐる。それは絢爛を通り越した高い平淡の境地で、一種の成層圈的境地とでもいはうか、もはや何物にも妨げられず、何物にも拘束されが、規格もなければ不規格もなく、是風もなければ非風もなく、不規格もなく規格であり、非風もまた是風であり、すべて、往くとして可ならざるなく、萬事は皆心のままである。そういつた藝境を「闌位」といひ、さういつた藝境の技風を九位に區分された藝格段階の最高位の「妙花風」と同格の高さに想定し、藝道の鍛錬はそれを窮極の目的として精進すべきものとしてある。

 これは世阿彌によつて傳へられた能樂の進むべき標的であるが、すべてが藝道の正確な基本的修養段階から出發して、徐徐に確實にその段階を進め、終極は此の絶對自由の精神的境地に到達することを目的とするのは、恐らく民族の奈何を問はず、あらゆる天才者の意圖することろであらうが、殊に日本の諸藝道精進の歴史に於いてそれは顯著な展開を示した歴史を持つてゐる。

 能樂は藝術的ヂャンルとして考へれば、いちじるしく中世的形相に特色づけられて、敍述成分を多分に包有する奇異の提示藝術ではあるけれども、その形態を突き拔けて上述の甚だ賞讚すべき精神的向上を示した點に於いては、世界を通じて容易に類比を見ることのできない最高級の民族的製作といふも過言ではなく、われわれが今後に與るべき民族的藝術を豫想する時、それから多大の使嗾を期待し得るであろうことは幸福といはねばならぬ。

『能樂全書』第一卷三一頁〜三七頁

最終更新日: 2004年12月05日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com