野上豐一郎「能樂概説(序論)」四

 能樂表現の最大特長の一つは幽玄であつて、少なくとも世阿彌の完成の理想においては幽玄がアルファにしてオメガなるものであつた。しかし、その後ワキの活躍を目的とする革新運動が幽玄の情緒を減殺する結果をもたらしたことについては、なほ二三の方面から檢討して見なければならぬ。

 まづ揚言の舞臺的意義とその存在理由について考へて見よう。

 幽玄は本來は歌道に於ける最高の表現段階を表示する術語で、俊成・長明・定家・正徹・心敬等によつて唱道された。しかし、それ等の人人の意見と解釋は必ずしも一樣でなく、その術語の内容と價値づけには個性的にも時代的にもかなり著しい展開の跡が認められるのであるが、それ等を通觀して、幽玄の根本概念といては、一種の隱微な美の高次表現が意識されてゐた點に於いては諸家の意見が一致してゐる。問題はその隱微の程度で、解釋の相違はその點に係つてゐた。隱微はあらはでないことを意味するから、からはでない薄明のぞしさに何物かが隱されてなければならぬが、隱されてあるものが強調されると、そういつた状態の下に聯想される靜寂とか神祕とかといつたゆうな情趣の支配する自然現象が描き出され、その背景として人つの深淵な世界觀の現前を實感するところまで行かうとする傾向があつた。それに對して、また一方では、隱されてあるものは美その物で、美の隱微といふことが幽玄の本質゛たと見る見方で、例へば花の美しさにしても、それがあらはにむきだしになつてゐるよりは、霞の底に隱されてあるとか、陽炎に冱え場等れてあるとかすると、美しさに深みができて、花やかさは一層品位を増し、きらびやかさは縹渺として引立つて來ると考へた。それが後では隱されてあつた美は次第に表面に現はれて來るのが却つて幽玄だとされるやうになつた。大まかに見て歌道の幽玄思想にはそういつた二た通りの解釋が行はれてゐた。世阿彌が能の樣式概念として取り上げた幽玄はその後者の考へ方に從つたもので、それによつて彼は優麗典雅の情趣を舞臺の上に充實させようと意圖したのであつた。

 けれども、世阿彌は舞臺藝術家であつたから、彼の幽玄工作については、專ら舞臺的に考察すべきである。それを表示する術語をば歌道から借りて、歌道で理解されてゐたところの(殊に正徹・心敬等の)概念から出發してゐるとは思はれるけれども、しかし、世阿彌の思想には世阿彌としての反省もあれば展開もあるので、歌道の幽玄と混同することなしに、能の幽玄はどこまでも表現樣式として考へ進めて行くべきである。もともと、舞臺藝術は綜合藝術で、單純な和歌(抒情詩)とは本質も異なれば機構も異なつてゐて、どちらも幽玄の表現を第一原則とするとはいつても、それは表示としての建前のことだけで、實際にあたつては比較にならないほど複雜なものである。和歌では三十一シラブルの言葉の配列と、リズムとその内容と、それだけの問題にすぎないが、能では歌詞と對話と舞踊と音樂とが成分となつて、それを一つのまとまつた演伎として提示するために、若干の役者と合唱者と音樂者が必要とされ、調和と統一によつて整理されなければならないのであるから、幽玄の情緒を表現するにしても、そういつた多くの成分のどれをどういふ風に工夫すればよいか、それからしてまづてて゛ある。役者にはシテの外にワキがあり、その外に子方もあれば、アヒもある。しかし、幽玄を強調する能では、機構をできるだけ單純にする必要から、シテを中心として、他は省かれるだけ省き、省かれない者は皆シテの演伎を助けるだけの役目にする。從つて吟唱が主で、對話はなるたけ簡單なものにする。吟唱も主要部分は合唱部に擔當させ、シテは必要なだけの吟唱は擔當するが、優麗典雅な舞踊(序舞と中舞がその代表的なもの)に最大の努力を費やさなければならぬ。合唱部の吟唱も音樂部の演奏もそれを生かすやうに調和を保たねばならぬ。またその他の役者とても同じことである。さうやつて統一された表現效果の最も幽玄的なものが最も能らしいもので、つまり鬘物(女物)がそれである。少なくとも世阿彌にとつてはさうであつた。

 ところが、能の種類は雜多であるから、すべての種類が悉く幽玄的であることは期待されない。或る物は幽玄から少し遠く、また他の物は幽玄から全く遠い。同じ種類の中でも幽玄成分の分量は一樣ではないが、概して、修羅物と四番目物は鬘物についで幽玄成分が多く、脇能物(神物)と切能物(鬼物)は幽玄成分が最も少ない。つまり破の能が幽玄の能で、序の能と急の能は幽玄の能ではないといふことにも(理論的には)なり得るのである。圖表で示すと次の如くである。

能と幽玄の説明圖  圖表の下部の紡錘形は幽玄成分の分量を示すもので破の能三種のうち鬘物は幽玄が最多量であり、修羅物と四番目物は稍々多量であり、脇能物と切能物は最少量である。修羅物と四番目物は破の能の範圍内にあるけれども、また一面から見れば、前者にはまだ脇能物の名殘があり、後者は切能物に接近してゐるので、それだけ破の能らしくない點もあり、その意味で純粹の破の能即ち純粹の幽玄の能といへば結局鬘物だけといふことになる。

 だから、幽玄は破の能のものと限定することができれば簡單であるが、世阿彌はさうは限定しないで、一般にすべての能の表現に幽玄は必要缺くべからざるものであると主張した。これは言ひ換へれば、破の能以外の能をも破の能的に表現せよといふやうなもので、命題そのものに論理上の矛盾を含んでゐることになるが、それだけ其處に世阿彌の幽玄第一主義の徹底させが想見されるのである。しかし、さうはいつても、さすがの世阿彌も殆んど全く幽玄成分を缺いてゐる能の存在——例へば切能物の中で鬼物といつたやうなもの——をば認めないわけには行かなかつたから、その場合には、歌詞の中に部分的にでも幽玄情緒を表現するとか、せめて扮裝だけでも幽玄風に仕立てるとかいつたやうなことが望ましいと注意してゐる。尤も、鬼物にも二種類あつて、地獄から現はれた形も心も鬼なる者(力動風鬼)はただ荒く活動するのみで、上述のごとく幽玄の工夫を施すべき手立てはないけれども、人間の怨靈が鬼になつた者、即ち形は鬼であるが心は人間である者(碎動風鬼)は破的な動作(碎動)によつて或る程度まで幽玄的な情緒を作り出し得ると考へられた。

 それならば何故に世阿彌は幽玄といふものをそれほどまでに重要視したのか、また重要視しなければらならなかつたのか、といふと、其處に能樂の完成と關聯して時代思潮的に一つの重大な問題が横たはつてゐるやうに思はれる。

 能樂が初期能藝形態から次第に脱却して最初の完成に近づきつつあつた頃、京都を中心として近畿地方で最も頭角をあらはしてゐた劇團は、大きな群として區別すれば、田樂と近江猿樂と大和猿樂の三群であつた。能藝その物は、初めは猿樂の劇團で發生したのであつたが、田樂の劇團(本座と新座)でもそれを取り上げて猿樂の劇團と對立的に演じ、初めの間は田樂の役者たちは壓倒されてゐた。けれども吉野時代の後期から室町時代の初期へかけて、大和猿樂のうち結崎の座に三郎清次(勸阿彌)が現はれるに至つて、俄然大和猿樂の聲明は田樂のそれに取つて代り、技術の卓越の順位が逆轉して大和。近江・田樂となつた。大和猿樂にはなほ他の劇團もあつたやうだが、主要なものは、結崎(ゆふざき)(觀世)・外山(とび)(寶生)・圓滿井(ゑんまんゐ)(金春)・坂戸(さかど)(金剛)の四座であつた。近江猿樂にも幾多の劇團があつたけれども、山階(やましな)・下坂(しもさか)・比叡(ひえ)の三座が代表的であつた。その他、丹波・攝津・伊勢等にも相當に活動してゐた劇團があつたけれども、これ等すべての劇團を通じて、結局、大和猿樂が最もすぐれ、大和猿樂のうちでは結崎の座が指導的地位を占めることになつた。

 どうして大和猿樂は成功したかといふと、堅實な寫實(物眞似)の基礎の上に立つて確實な踏み出しをしたことが根本の理由であつた。その頃、近世猿樂や田樂では寫實主義の確固な基礎付けなしに、ひたすら幽玄の情趣を飾り立てて、感覺的に情緒的に訴へることのみに腐心してゐた。だから見た目には花やかで美しく、また音曲としても煽情的で、忽ち大衆の歡迎を贏ち得たのであつたが、年月の經過の間には行き詰つて破綻を來たし、勸阿彌を中心とする大和猿樂の擡頭と共に遂に退轉の運命を免れなかつたのである。勸阿彌は能樂界の大革新を實行し得たほどの自由博大の精神の持主であつたから、長い努力の結果として築き上げた寫實主義の基礎の上に、近江猿樂・田樂の標榜してゐた幽玄主義を取り入れたのが強みであつた。同じく幽玄主義ではあつても、近江猿樂や田樂では寫實主義の基礎づけがなかつたので、砂上に建てられた樓閣の如く崩壞したが、勸阿彌の幽玄樓閣は寫實の頑丈な岩の上に建てられたものであつたから永續したのであつた。此處に物眞似を寫實と言ひ換へることには多少の躊躇を感じるが、舞臺の上に眞實らしさを描き出さうとする根本の移行に於いて、一種の寫實であつたことに相違はない。勸阿彌の後繼者なる世阿彌が幽玄第一主義を唱道したのも、やはり父勸阿彌の寫實主義の基礎の上に立つてのことで、その時代には物眞似はずてに舞臺上の常識となつてゐて、多くの言議を要しなかつたのである。彼は物眞似に制限を加へて、模倣される對象によつて寫實に精疏の區別を立てることを必要と認めたのは、勸阿彌の行き方ずさうて゛あつたのか、それも彼獨自の見解に依るものか、その邊のところは明確ではないが、その區別とふのき、幽玄の情趣を表現するのにふさはしいもの(貴婦人・美人・貴公子等)をば精細に寫實してもよいけれども、反對に幽玄の情趣に縁遠いもの(田夫・野人等)をば精細に模倣しないがよい、といふことを主張してゐる點から考へると、どこまでも幽玄本位の選擇であるから、恐らく世阿彌自身の考へ方から出たものであらう。

 物眞似幽玄の關係については、世阿彌自身も多くの言辭を費やして居り、それに關する解釋もいろいろあるが、舞臺的にこれを見れば、物眞似は舞臺表現の第一工作で、幽玄は第二工作である。まづ物眞似の基礎が置かれて、幽玄でそれを完成するのである。繪畫に譬へれば、物眞似はデッサンで、幽玄は施彩の如きものである。彩色はいくら美しくできても、デッサンが確實でなかつたら作品としての價値は薄弱である。近江猿樂の衰へたのも田樂の滅びたのもその點に基因てゐた。之に反して、デッサンが確實であれば、まづ第一の成功は收め得たものといへるが、しかし、肝腎は仕上げで、施彩の重要性が問題となる所以である。世阿彌が幽玄第一主義を唱道したのはその理由からで幽玄の舞臺的意義といふのも結局は能樂完成の必要條件としてに外ならなかつた。といふのは、世阿彌にとつて能樂完成の目的は、品位ある優麗典雅の舞臺藝術を作り上げることにあつたからである。

 それならば、なぜ世阿彌は優麗典雅を目刺品位を求めて、幽玄第一主義を標榜したのであつたか。それについては、一つは彼自身の性向と教養の點からも考へられるが、今一つは、時代思潮の關係から考へられる。性向といひ、教養といひ、見方によつては、時代思潮の影響下に育生されたものであつたから、殊に時代思潮の問題は重要である。

 世阿彌がその中で育ち活動した時代はどんな時代であつたかといふと、長い戰亂の中間の一時平和に復歸した時代であつた。彼の生まれたのは貞治二年(正平八年)、新だのは嘉吉三年で、將軍の代で數へれば、義滿・義持・義量・義教・義勝と五代に亙り、義滿執政の初期に勸阿彌の才能が認められ、同時に當時まだ少年であつた世阿彌(幼名藤若)の存在も認められ、十年後には勸阿彌の歿後を承けて世阿彌の時代となり、更に十年後には義滿は將軍職を辭して太政大臣に任ぜられ、その子義持が將軍となり、更に十五年の後には義滿が薨じ、更に二十年の後には義持の子義量の代となつたけれども、要するに、義持といひ義量といひ、大まかに見れば、義滿執政の延長の如きもので、即ち能樂界としては世阿彌全盛の時代で、世阿彌自身は義持執政の晩年にあたり(應永二十九年・六十歳)すでに引退して長男十郎元雅の世となつてゐたけれども、曩(さき)に將軍義滿が引退してもなほ執政の全權を保持してゐたやうに、十郎元雅が觀世大夫となつても能樂界の中心勢力はなほ世阿彌の手にあつたと思はれる。積極世阿彌の時代は勸阿彌死歿の至徳元年(元中元年)から將軍義教就任の永享元年までの四十六年間で、藝術家としては長い活動期間であつた。(義教が將軍職に浸くと忽ち晴天の霹靂の如く世阿彌父子の上には不幸が襲ひかかり、世阿彌の甥音阿彌が立てられて能樂界を支配することとなり、世阿彌父子は閉居を命ぜられ、つづいて十郎元雅は病死し、世阿彌は流刑に處せられ、將軍義教横死の後宥されて歸洛したが、年齒すでに八十に及び、大和の僻陬(へきすう)に蟄居して寂寞たる最期を遂げた。)

 世阿彌の活動時代を文化的に見ると、それは一種の中古復興時代で、表面の政治形態は鎌倉時代と同じく武家政治であつたが、室町の政治形態は鎌倉のそれとは本質を異にし、中間に吉野時代の緊張した國家意識の昂揚を見たため、その刺戟からも免れることなく、たまたま時代機運が南北融合に向いて來たのを利用して、政治中心の分裂を防ぐべく幕府わきょうとに隱岐、公武合體の政治體系を畫策して、政治中心し同時に文化中心でもあるやうに工作し、畫策者義滿は中古時代に於ける藤氏全盛の實現を夢みて、代表的文化人を以つて自ら任じ、室町に花の御所を構へたり、北山に金閣寺を建てたりして、生活樣式はすべて宮廷人に則り、花鳥風月を樂しみ、雅樂を學び、蹴鞠を學び、儀禮を尚び、綺羅を飾り、奢侈豪遊日もこれ足らざるの觀があつた。しかもその氣風は將軍一個に止まらず、上下押しなべて平和を謳歌し、安逸に狃れたことは、例へば當時の時代相を最もよく描いた狂言の文句に「天下治まり、めでたい御代になりば」といつたやうな言葉が頻繁に繰り返されるのも、必ずしも衒飾的辭令としてではなく、如實に當時の社會的一般意識を表現したものかとも思はれる。

 さういつた平和讚美の氣風と逸樂遊放の習俗は社會的享樂の對象として能樂・狂言の流行をますます促進することになつたが、なかんづく能樂は元來庶民階級の間に發生して長い間民衆の娯樂として行はれてゐたものであつたけれども、今や日本一のエレガンティエ・アルビテルを以つて任ずる上品ぶつた氣取りやの將軍の賞玩に曝されることとなり、また、その保護を受けるやうになつたので、能樂界統率者なる世阿彌としては、何よりもまづ將軍の趣味好尚を考慮に入れねばならなかつた。それは要するに能樂を品位ある華麗な演伎として仕立て擧げることに歸着した。幽玄の情趣を湛へて粧ひ立てることがその目的を完成すべき最上の方法と考へられた。幸ひにもそれは彼自身の趣味傾向にも適合してゐたので、彼は熱情以つてその工作に精進し、遂に前代未聞の優麗典雅な樂劇を完成した。それには幸運にも勸阿彌傳來の物眞似の鞏固な地盤のの出來上がつてゐた上での仕事であつたので、確實な成功を收め得たことはすでに述べた如くである。

 その場合、彼の逢着した一つの障碍は、あまりにも優麗典雅な品位ある藝辭ゅっは低俗な民衆の趣味に對して果していかなる效果を與へるだらうかといふ問題であつた。彼は藝術の「壽福増長」といふことを強調してゐるが、それは自己の藝術が人氣を博して、その人氣が永續し擴大することを意味した。さうして人氣の基礎は一般大衆の指示にあつたから、一方では小數具眼の士の認識を得ながら、また一方では低俗な大衆の喝采をも博さなければならぬといふディレンマに直面せざるを得なかつた。此の厄介な問題を解決するために、彼は「花」の戰術を發明した。戰術といふ言葉は耳ざはりであるが、役者が舞臺に立つた瞬間には彼は見物人と對立的立場に置かれたやうなもので、彼が見物人を壓倒するか、反對に見物人に彼が壓倒されるか、と、さういつ危險に臨んだやうなものである。殊に見物人の大多數が無知で低趣味である場合にはその危險は一層重大である。何となれば、彼がもし低俗な見物人に媚びて調子を落せば、彼は藝術的に墮落して低俗者に興産したやうなものであるから。さればといつて、見物人を無視して獨り自ら高うするやうな態度を取れば、見物人は彼に追隨することを斷念して彼を見放してしまふであらう。此の困難に打ち勝つため二彼の案出した「花」の戰術を用ひれば、まづ見物人を壓倒して置いて、おもむろに自己の本領を發揮することができるので、毫末も藝格を定家されることなしに、小數具現者をも感服させ、同時に一般大衆をも支持者とすることがてきるのであつた。

 その言はゆる「花」の祕術については此處に解説する餘裕はないが、ゆうするにそれは世阿彌が無知の大衆の前でも悠然として幽玄の情趣を展開させ得べき唯一の演出法でなければならなかつた。彼はどこまでも幽玄第一主義者であつたから、大衆無知の徒を相手にする場合にはさういつた戰術的工作を必要と感じたものであらう。

『能樂全書』第一卷二四頁〜

最終更新日: 2004年10月29日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com