土屋惣蔵昌恒の井の字の旗指し物と義信生存説

 本稿では私が東大史料編纂所で見た本を紹介したいと思います。その本でも異彩を放ったのは「土屋惣蔵旗指し物-武田義信誌」でした。これは南部武田家に伝わる旗指し物の由来と南部武田家の由緒をのべたものであります。平成 12 年 7 月 6 日に著者は史料編纂所に通ってたまたま見つけたのですが、この由緒書きは皆が知っている事実なのか?と言うことが気になり史料編纂所で一般に公開されていることから、本 HP でも簡単に紹介することにしました。義信誌で記載されている文章を忠実に写したときは『』。私見は () で囲むことにします。
 以下に述べる文章は、極力「武田義信誌」を要約するもので、他意はありません。また、史料が書かれたのが昭和の初期ということも有り、事実関係が曖昧になっているところがあると思われますが、このような説もあると言うことで御理解いただきたく存じます。また、土屋家、武田家、南部家に対しては中立した立場で執筆していきたいと思います。

昭和十年
土屋惣蔵紋所並旗印ノ由緒
南部武田家秘蔵史関係ノ筋道

武田義信誌
 武田 義信 (印) 岩手県出身

武田太郎義信
南部入国以来四百年間全く門外不出未発表ノ武田秘史

(以上出典、東京大学史料編纂所蔵、土屋惣蔵旗指し物)

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本説の要約
惣蔵の旗指し物と義信生存説の要約です

土屋惣蔵昌恒
片手千人切りの逸話を残す土屋惣蔵の要約

東京市主催旗展覧会
惣蔵の旗指し物が展覧会で出展されたときの新聞情報

南部武田家
太郎義信の御子孫南部武田家について

本説の要約

 ここで出てくる井の字の旗は、信玄公の父、信虎が将軍義輝から下賜されたもので、それを惣蔵がもらったと言う話から始まります。信虎は信玄公没後、一回甲斐の国に戻りました。
 惣蔵が勝頼に従って最後まで戦った話は有名です (片手千人切りの伝説)。天目山で勝頼の首を織田方に渡さないよう、この旗で包んで「あるところへ送った」という逸話が付いていました。その旗指し物は南部武田家が所有していたものです。南部武田家は、義信謀反の時、義信が廃嫡され奥州南部家に送られたことより始まります。南部氏はもともと甲斐源氏でありますので、義信を預かるくらいのことは、OK だったのでしょう。義信は切腹したことになっておりますが、実は切腹したとの記述があるのは甲陽軍鑑のみ。他の文章では東光寺住職の日記で病没ということが書いてあります。飯富虎昌、義信騎下 80 騎が処罰追放されたのは、生島足島神社に奉納した誓詞、及び西上野小幡信貞に宛てた手紙等により確認できます。義信が死んだという確実な証拠に薄く、義信は奥州へ逃げたと考えることは、十分できるのではないでしょうか (八王子千人同心説も)?
 惣蔵は密使に勝頼の首を奥州にいるはずの義信のところへもって行くように指示し、壮絶な最後を遂げました。南部武田家はその後、歴史からは姿を消してしまいますが、江戸時代土屋氏は惣蔵の働きにより大名家に取り立てられました。明治の廃藩置県の折りも子爵を賜りました。その時、南部武田家の当主、これも義信氏が土屋家に旗指し物を返しに行ったそうです。しかし、土屋家は「これはうちの旗指し物ではない」と返したという話が伝わっております。