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(その後、信玄公の勝鬨の兜 (勝頼が最後にかぶっていて、南部武田家に首と共に送られた兜) は武田家を離れてボストン博物館から買い手が付き海外に持ち去られようとした。本兜は仙台在住の武田家の家宝であり、内側には「末世に及ぶと言えども他に渡すべからざるものなり」と法性院信玄公自らの自署が見受けられるものであった。本兜は昭和二年田中義一首相が議会解散総選挙にあたり、武運長久を祈るために青山の田中邸の鎮護になったとの挿話もある。また本兜は新田義貞公から武田家に下賜されたものであるとの記載もある。また謂れは恵林寺にも伝わっているそうである。) ここの記載で、なぜ仙台武田家が出てくるのかが多少不明瞭である。分家筋かもしれない。 明治のおり、義信 (太郎義信ではなく御子孫) 氏は土屋子爵家に井筒の旗指し物を献上に行った。永日記にも記されているように、井の字は土屋家の紋所である。しかし土屋家の家司が、井筒の紋は知らない。初耳です。他家のものではありませんか。と言ったという。 |
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南部武田家は、このように南部氏に匿われた武田太郎義信を祖とするとの言い伝えのある家柄である。実際は武田家の嫡流であり、武田家再興のあかつきにと、惣蔵が兜とみしるしを送ったのではないかと書いてある。 南部家で賓客の待遇を得て八百石。客分のため藩主が江戸にのぼり帰ってきたときなどは土産を下賜したとの記録も残っているそうである。しかし、藩主南部家は武田家の書類を借り上げ、そのつど返却しなかったという。藩主利直公は義信関係においては厳命をもって他言無用との触れを出し、そのまま明治維新、現在に至る。言い伝えが曖昧になるのはしょうがないのかもしれない。 以上、この説の信憑性は分からないが、歴史の面白さを感じさせる話である (おわり)。
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