土屋惣蔵昌恒の井の字の旗指し物と義信生存説 3 

 大正十五年三月、東京市主催旗展覧会


が開かれ、全国より出品三千六百余点中特に目を引いたのはその日の各新聞に紹介された。珍品として推奨されしもの七、八点。


 足利将軍の日の丸
 武田家滅亡の時勝頼の生首を包んだ土屋惣蔵の馬印
 大坂夏の陣真田幸村の六文銭の馬印


 中にまた異彩を放つものとして大活字で武田勝頼の生首を包んだ土屋惣蔵の井筒の馬印なるもの現存しあり・・・右は常時東京市社会局に於て己に□□□ (読めません) 専門家の常識鑑定を経出品されたものであるに相違なからふ「右の馬印に井筒の紋はついている」この現存せる遺物も確かに生きた証拠と見るべきであらふ

(仙台真田家には、二流の六文銭の旗が伝わっており、大坂の役の時に使用したとの事である。大坂の役での幸村公の旗は朱塗りの旗指し物であったことは有名であるが、本人は六文銭を用いたと思われる。)

 土屋惣蔵最後の功績


 惣蔵は天目山の武田家滅亡に際し、先づ主家再興の謀計を全うせん為、武田家の重賓勝鬨の兜 (勝頼の首級を包んだ自分の軍旗を以て) 之を包み、奥州南部領在住の兄太郎義信の元に密使を以て送ったものであるが、如斯惣蔵の隠れたる遠謀術策こそ主家を思ふ最後の忠節を献げたるものとして、最顕著な特筆すべき手柄であるのは申すまでもあるまひ。
 武田信虎は、天正元年信玄の死に殉死せんとした惣蔵の誠忠を讚えんために、井筒の紋章を給ふたのである。其唯一の史蹟が幸いにも摂津国高槻城主日向守の永日記に筆記されて今日に遺されたものである。是が其子孫たる土屋家にとりては先祖即ち惣蔵の誠忠を頸揚するためにも無二の尊い史料であらふ。其尊い井筒の馬印は武田家の家寶として四百年全く奇跡的に現存していたのであるが、今日土屋神社復興に際し奇しくも世に浮かび出たものである。また此馬印をもって包み送られた兜は仙台に於て明治大帝の後展覧の光栄に浴したことがある。(以下中傷文のため省略)

本説の要約

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