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| 先日、長久手に行って参りました。この長久手はご存じの通り、羽柴秀吉が天下を統一する際の試金石であり、かつ、徳川家康にとっては自らの名を高め、秀吉に一目をおかせることができた重要な戦いであった。頼山陽の日本外史の言葉を借りると、「公 (神君家康) の天下を取る、大坂に在らずして関ヶ原にあり、関ヶ原に在らずして、小牧にあり」と、小牧長久手の戦いこぞが家康の天下人へ押し上げた原動力になったことを述べている。 | ||
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長久手の合戦で面白いのは、秀吉方でありながら唯一局地戦で勝利をあげている堀隊の動きである。三好秀次隊が榊原、大須賀隊に敗れたのを察知した名人久太郎 (堀秀治・・・軍監) は、中央の高台 (川の下の小さな茶色) に陣取り、榊原・大須賀隊をこっぴどく叩いた。しかし、家康の金扇の馬印を見て驚き、戦場を離脱してしまったのである。堀にしてみれば、池田・森が考えた無謀な三河への中入り作戦を、とても命を懸けて遂行するつもりは無かったようである。軍監という役目でもあり、もし本作戦が成功しても、功は池田勝入斎恒興のモノである。池田恒興は堀秀治に使者を送ったが、ていよく「余力無し」と断られている。 本当は、徳川方の井伊隊の戦ぶりを知りたく長久手を訪れた。尾州長久手戦記と小牧陣始末記のどちらの記載が正しいのだろうかと・・・・それというのも、鬼武蔵こと森長可の首についてである。現在でも鎧は赤穂の大石神社にある。兜は個人の方が持っている。太刀は徳川家臣本多八蔵が取ったらしい。乗馬・百段は大坂の陣で弟の忠政が乗っている。しかし、長可の首自体は見聞されていないのである (森家には鬼武蔵ゆかりの人間無骨という槍も伝わっていたが、第二次世界大戦後は森家を離れたそうである)。 |
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近年友人から森長可の兜の写真を見せていただいた。左の写真の奥の方にあるモノである。手前の写真は井伊家 800 石で武田家遺臣(原衆) の柏原の星兜である。 小牧陣始末記にある「此鉄砲は何れかの手により打ちしと伝ふに、井伊直政の手三千挺の足軽頭熊井戸半右衛門組の柏原与兵衛と伝者の放つ鉄砲也、横合いに打つ弾当たりしと也」とある。奥の森の兜も彦根柏原家に伝来したのである。よって、森の首は井伊家柏原が取ったのであろう・・・・と考えるのが普通であるが、小牧陣始末記が本当の描写であるかというと、そうでもないことが近年明らかにされている (詳細は井伊軍志・中村達夫著)。歴史は面白いモノである。 |
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← 現在の長久手町の姿。古戦場から見た風景です。この辺りで森・池田隊と徳川・北畠隊が戦った。 | |
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← 池田勝入斎恒興の戦死場所と伝えられた場所に立てられた石碑。勝入塚と呼ばれております。美濃大垣城主で、秀吉方に組みした。小牧長久手の戦の前の、犬山城攻略成功を収めたが、羽黒の戦いで森長可へ協力しなかったことで面目を失っていた。汚名を晴らすためにもこの戦いは勝ちを収めたかったもとと思われる。その焦りが、戦では禁物になっている、「中入り」の作戦を秀吉に進言することになる。中入りとは、虚を付いて、敵の背後を付くことであり、兵士を分けるところから、兵法的には愚な作戦と言われる。中入りはあまり成功した試しがない (賤ヶ岳の佐久間盛政の例)。 池田隊は、まず岩崎城を攻略した。改正三河後風土記にあるように、大した城でなかったため、すぐに陥落した。しかし、三好秀次の敗戦により退路を断たれ、仏が根で徳川軍の安藤直次に槍を付けられ、永井直勝に首を取られた。 家康と池田輝政が関ヶ原前に姻戚関係になり、よもやま話をしていた。池田が「我が父を討ち取りしものは?」と聞き、永井呼び知行を訊ねた。輝政は涙を流し「我が父の首は五千石か・・・」と言ったそうである。家康は直ちに永井の知行を加増したという話が残っている。 |
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← こちらは庄九郎塚。池田之助の戦死場所といわれる。この日安藤直次は有る密命を帯びていた。それは、家康お気に入りの、井伊直政に武功手柄を立てさせて欲しいとのことであった。実は之助に槍を突けたのも直次であった (小牧陣始末記、尾州長久手戦記、安藤帯刀物語)。直政を呼んだが、もちろん近くにはいない。そのうち直政を見つけると、池田隊の黒母衣と組打ちしていた。安藤は「大将たる者が端武者と一騎打ちなどするモノではない!」と叱りつけたという話が残っている。 | |
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← 森長可の戦死場所と伝えられている、武蔵塚。美濃金山城主で、池田恒興とは姻戚関係にあった。京では鬼武蔵と威名を馳せていたが (尾州長久手戦記)、改正三河後風土記、長久手御陣覚書によると「羽黒村の羽黒川の後ろに陣をはって八幡林の鳥居の前に陣を敷いた」というような、幼稚なモノであったそうである。徳川隊酒井忠次の奇襲によりもろくも破れた。小牧の陣では、池田恒興とともにこのような理由から中入りを進言したのであった。 | |
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← 首塚。1584 年 4 月 9 日の長久手の合戦の舞台となった長久手の村は、戦死者の山となった。この惨状を目にし、心を痛めた岩作村安昌寺の雲山和尚は、村の人達とともに、死体を集めて埋葬して塚を作り供養しました。 毎年合戦があった当日には線香が捧げられ、村人達によって法要が営まれてきたそうです。この法要には、遠く名古屋藩の藩士らも参加していたそうです。 |
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| 参考;中村達夫・井伊軍志、長久手町教育委員会編・長久手の戦い、歴史群像・徳川四天王 | ||
